― 触紅 ―






その女を初めて目にしたのは暑い日だ。
派手な化粧に、長いブロンド、豊満な肉体。
相変わらず趣味のいい、と皮肉ったことを覚えている。
あれから三度の月を過ぎて、もう一度見ることになるとは思わなかった。
呼び出された、この部屋で。



「う゛お゛ぉい、全部済ましてから呼べよなぁ」

ソファに投げ出してあった上等のシャツを放ってやると、寸分の狂いもないタイミングで出された裸の腕にそれは収まった。
ばさりと羽織るその向こうに、巻いたブロンドが見えている。
部屋に残る甘い香り。窓の側には申し訳程度に減ったワインと二つのグラス。
真っ赤なドレスは無残にも足元。
夜の気配が濃厚なそれに、スクアーロは眉を顰めた。
「早かったな」
情事の名残など欠片も残さない表情で、ザンザスは床へ降り立つ。
敷き詰められた絨毯のためか、この男の癖なのか、足音はない。
任務の後に寄れと言ったはずだが、とこちらを伺うのに、あれくれぇ3秒もありゃわけねぇぞぉ、と口汚く告げてやる。
フン、と鼻を鳴らした男は、ベッドを振り返りもせずに執務机へと足を向けた。

相変わらず薄情な野郎だ。

表情には微塵も出さず、胸の内深くで溜息をつく。
この男に抱かれる女は何が楽しいのだろうか、とも。
ザンザスは特定の女を作らない。
愛人と呼べる女はいても、そのどれもが一ヶ月のうちに変わっていく。
ともすれば一週間も経たずに捨てた女もいたのではないか。
全てを把握しているわけではないから、確かなことはわからないが。
少なくとも今まで、二つの季節を過ぎても付き合いを持つ女は見たことがなかった。
この女が始めてだ。
もう一度、シーツの向こうに見えるブロンドに視線を投げた。
見たのは、夏。いまはもう冬だ。少なくとも、三ヶ月は一緒にいる。
数えてみて、己の腹に落ちた冷たく重い感情に、馬鹿な、と苦笑した。
そんなものの名前は知らなくていい。
こいつとは、身体だけのはずだ。

「おい」

思考を振り切る前に、ザンザスの声に遮られた。
本人は、すでに書類を片手にソファの上だ。
その脚を投げ出した机の上に、スクアーロはどかりと腰掛ける。
瞬間、眉を顰めたザンザスだが、何も言わずにその書類を手渡した。
「…んだぁ、これ」
文字の羅列は、とあるマフィアの幹部に関する情報だ。
ひとつ終えたかと思えば、矢継ぎ早に次の任務か。
盛大な溜息のひとつもつきたくなって、内容を確かめるのもそこそこに、己の脇へと書類を投げ出す。

「期限は一週間後。それまでに片付けて来い」

涼しい声音に文句をつけてやろうとして、遣った視線の先に、何かを見つけた。
肌蹴たシャツの、その首筋。常であれば羽飾りに覆われて見ることのできないそこに、紅い。
「…ッ…」
どこまで、気を許してやがる。
込み上げた感情に吐き気を覚えた。くだらない。自分は何を考えている。
この男に、一体どんな感情を。

「おいカス」

はっとして、ザンザスを見返した。
訝しげに寄せられていた眉間が、スクアーロの反応に深まる。
その色が見たことのない色を浮かべているのに気づいて、
(そんな顔、すんじゃねぇよ。)
思った。
気遣うような色はもたなくていいのだ。
そんな、甘ったるい感情からくる関係ではないはずだろう?
まるで自分に言い聞かせるように、スクアーロは言葉を飲み込んだ。
「てめぇ、どうした」
問う声がいつになく穏やかで、胸のうちになにかが込み上げる。
それを半ば強引に押し殺して、真っ直ぐな紅から視線を背けた。

「…っ、んでも、ねぇよぉ。それに、一週間もいらねぇぜぇ」
「護衛が10人ばかり交代でついてる。それも全部だ」
「んなもん、関係ねぇ」

今日は早々に引き上げるに限る。
きっと疲れているせいだ。こんなくだらない感情を覚えるのは。
帰って、眠って、起きたら次の任務につけばいい。
緊張の中に身を置いて、標的を切り刻んで、血の臭いをかぐ頃にはきっと、こんなことは忘れているはずだ。
この部屋の、この香りのせいだ。
チ、と舌打ちをして、投げ出した書類を手に取った。
それと同時に机を降りて、


「じゃあなぁ、後はよろしくやれよぉ」


言って、背を向けた瞬間。
伸びてきたザンザスの手に捕らえられた。

「う゛お゛…っ…」

急に腕を引かれたせいで、バランスが狂う。
散らばる書類を視界の端に入れるうちに足払いをかけられて、為す術もなくザンザスの胸元へと収まった。
「う゛お゛ぉい、てめぇ…!」
文句を口にしながら振り返れば、紅い瞳はすぐ近く。
それが何を意味するか、脳へ伝達される前に唇はふさがれていた。
口紅の感触が残るその唇がひどく不愉快で、けれど歯列をなぞって絡んでくる舌に翻弄される。
「ん…っ、…ッ…!」
せめてもの抵抗にシャツの袖口を引っ張って、喉の奥で哂われた。
いまいましさに這い回る舌を噛めば、お返しだとばかりにきつく吸われる。
弱い粘膜を散々に貪られて、酸素が足りなくなったころ、啄ばむような口付けを最後にザンザスの身体が離れていった。
シャツが皺になるほど掴んで、スクアーロは荒い呼吸を繰り返す。
息継ぎも出来ねぇのかとからかわれて、ぎろりと潤んだ瞳を向けてやった。
「て…っめ、が、させなかったんだろ!」
口角をつりあげた、目の前の相手の機嫌はいい。
いまにも恐ろしく全開の笑顔で笑い出しそうで、スクアーロはもう一度視線を下げた。
唇を噛み締めて呼吸を殺すのに、長い髪を遊ばせていたザンザスが制服の上着を脱がせ始める。
びくりと大げさなほどに反応して、スクアーロは身じろいだ。

「っ、う゛お゛ぉい、はな…っ」
「てめぇは」
「…?」

どうすればこの面倒な制服をそうも容易く剥ぎ取れるのか。
赤いドレスの上へ黒い上着を放りながら、ザンザスが言葉を続けた。
「気づかねぇのか」
「……なにがだぁ」
「フン、鼻もいかれやがったか」
背後の男は、ヤキが回ったもんだな、と嘲りながら体勢を入れ替える。
上等のソファは広く、寝転がったところで支障はない。例え、この上で行為に及ぼうとも。
女がいるのに酔狂なことだ、といささか呆れて、ふいに違和感。
長くそばに置いた女の前で、スクアーロを抱く理由がない。

「……ようやくか?」

満足そうに、瞳を細めて。
「…殺ったのか」
「ああ。てめぇが入ってくる、その前だ、スクアーロ」
言われて空気を探ってみれば、確かに死の臭いがする。
己にまとわりついた血のそれと違う、穏やかな、けれど冷たい。
甘い香りで紛れでもしたか。だとしたら、己の嗅覚も鈍ったものだ。
けれど思い当たる節があって、スクアーロは再び唇を噛み締めた。

嗅覚が鈍った。

それが理由なら、どれほど救われただろうか。
この部屋に入った瞬間から、己の感情を支配していたものの、名前。
醜いそれに、気づきたくもなかったが。


「妬いてんじゃねぇよ」


思考を投げ捨てるよりも先に言われて、かぁ、と頬が熱くなる。
「ッるせ…!」
文句はその唇にふさがれて。
ベルトの外されるその音に、己の運命を諦めた。
仕方がない。こいつはこういう男だ。

「…悪趣味だぞぉ、ボス」

何も、死体のある部屋で盛ることはねぇだろう。
言外に含ませて覆いかぶさる男を見上げ、見下ろす紅を受け止める。
「今更だ」
吐き捨てる言葉に滲むのは、情欲。
認めたくもない、優越感が己を包むのにスクアーロは目を瞑った。
(こいつの濡れた表情なんか見飽きたぜぇ)
きっと、ベッドで息絶えた女には見せなかった表情。
それどころか、今いる愛人の、他の誰にも。

「…あの女は」

ふいに聞こえた言葉に、薄く開けた瞳を向ける。
「情報屋だ。……使い捨てのな」
ちらり、視線を外すのに気づいて、
書類の幹部の情婦だったか。
問えば、そうだ、と無感情な声が答えた。
「さっきの書類で情報は全部だ。…あの女は、いるだけ邪魔だ」
告げる、その表情は哂っている。
馬鹿な女だ、と、まるで哀れむ色も見せず。
その首筋には、先ほど見つけた紅がやはり色濃く残っていて。

「恨み買ったんなら、その痕、当分残るなぁ」

つ、と指先でなぞって揶揄る。
爪を立ててやろうとして、馬鹿馬鹿しい、と思い直した。
けれど一瞬滲ませた思考は、当然、ザンザスには読まれていて。

「気に入らねぇんなら、てめぇで消したらどうだ」

ク、とさもおかしそうに笑う男へ、上等だぁ、笑みで返して。
残る紅に鋭い牙で、キスマークと呼ぶにはいささか乱暴な痕を刻んでやった。

next.


06.11.19 07.01.19 加筆修正 << Back