2012.06.20  039.今更かもしれないけれど  R-18 帝光中部室にて




きっかけはなんだろう、思い出せないくらいには些細だったはずだ。
思春期にはありがちな同性への憧れがほんの少しだけ形を変えて、たまたまぴたりと嵌まってしまっただけのこと。
互いに気づかないふりは出来ないまま、悪戯に重ねた熱だけが身体の中で渦巻いて、言葉にする方法を知らずに過ごした末の、

――――うだるように暑い、夏の出来事。

ゴロゴロと聞こえていた遠雷は、日が暮れるころに雨を伴ってやってきた。
ちょうど部活を終えて帰る頃合いだ、突然の夕立ちに方々から悲鳴が上がっている。
置き傘を取りにロッカーへと引き返す者、昇降口で雨宿りをする者、時間潰しに教室や図書室へ向かう者――一様にうんざりとした表情だ。
無理もない。せっかくの金曜、明日は休みだというのに、家路に着くのを邪魔されては。
叩きつけるような激しい雨足は、その勢いを弱めそうにはない。
広い校庭の向こう側は煙り、夕暮れとはいえまだ明るいはずの空にもそれとわかる稲光が走る。
学校の敷地は広い。
校舎ひとつとっても大きいが、外周をぐるりと覆うフェンスさえ雨に霞んで見える今は、外界と切り離された錯覚さえ覚えるほどだ。
「まるで閉じ込められたようだ」と、誰かがぽつり、溜息とともに呟いた。




ばしゃばしゃと水溜まりを駆け抜ける音が響く。
ひび割れたコンクリートに雨が染み込んで、濃い陰影が幾筋も見えた。
その上に溜まる雨水を容赦なく踏みつけながら、二つの影が目的地へとひた走る。

「テツ!ほら、もうちょいだから走れ!」
「ま…ッ、は、速いです青峰く…ッ」

遅れがちな黒子の手を引いて前を走るのは青峰だ。
大柄な青峰と、それに比べれば小柄な黒子の間には、実に20cmを超える身長差が存在する。
身長が違えば足の長さも違うのだから、その一歩には大きな差があった。
青峰が一歩で踏み越えてしまう距離は、黒子にとっては一歩半でようやく追いつく距離だ。
その状態で手を引かれて走れば、練習に体力を削られた黒子が途中で音を上げるのは当然の結果だった。


* * *


部活の後の自主練習。
黒子がレギュラー入りを果たした後も日課になっていたそれは、例え週に一度の安息日でも変わらない。
しっかり身体を休めることも一軍レギュラーの心得のうちだとは赤司の言葉だったが、彼にしたって自他ともに認めるバスケ馬鹿の青峰が大人しく帰宅することなど端から期待していなかったろう。
無茶をしないように見張ってやってくれ、と黒子に言付けて行ったのがいい証拠だ。
「赤司くんの命令には逆らえません」と仕方がなしを装って青峰のもとにやってきた黒子は、楽しそうな色を滲ませていた。
安息日には大抵撮影に追われている黄瀬が「オレも黒子っちとバスケするっスー!!」と喚きながらも事務所の人間に引きずられて行くのを見送ったのがほんの二、三時間前のことである。
いつもは所狭しとバスケ部員のひしめいている体育館だが、バスケ部の安息日ともなれば少々勝手が違う。
第1と第2体育館は他の運動部が使用しているし、第3体育館はワックスがけだとかで使えない。
しかしながらいつも黒子と練習している第4体育館は、赤司が裏から手を回しているために、いつどんな時でも使用可能だった。
黒子による幽霊騒ぎが生徒のなかでずいぶんな噂になったこともあって、使用権を勝ち取るのは造作もなかったと聞いている。
まったく赤司サマサマだな、と内心肩を竦めながら、青峰は体育館の鍵を手慰みに放り投げた。


体育館へと向かう渡り廊下の手前には、専ら運動部が利用している自販機がある。
化け物じみた青峰の体力についていけない黒子が途中でへばるのはいつものことで、その度青峰がドリンクを買いに走るのだ。

「ほらよ」
「スミマセン…」

今日も今日とて体育館の床に伸びた黒子に苦笑をひとつ、腹這いのまま黒子が伸ばしてきた手に冷えたボトルを渡してやる。
受け取った黒子がボトルを引き寄せ、頬に当てて「気持ちいいです」と笑うから、青峰は満足してぐりぐりと頭を撫でてやった。
毎度お決まりのように「コドモ扱いしないでください」と唇をとがらせる黒子だが、嫌がっていないことくらいお見通しだ。
更に撫で回してやると、心地良さそうに目を閉じた。
気まぐれな猫のような仕草に、知らず青峰の口もとが緩む。
今は黒子が目を閉じているからいいが、ばれたら機嫌を損ねられそうだ。
さてこの緩んだ頬をどうしようかといささか回転の悪い頭にエンジンをかけて、青峰はふと思い出した。

「そういやテツ、今朝、天気予報って見たか?」
「いいえ…でも、今日はずいぶん良い天気でしたけど。なにか?」
「飲み物、買いに行ったときによ。空ずいぶん暗くなってたみてェだから」

雷のような音が聞こえた気もしたし、と続ければ、緩慢な動作で黒子が身を起こした。

「今日は、暑かったですし。夕立ちが来るのかもしれませんね。降られると厄介です、…ちょっと早いですが、帰りますか」
「おー…」

黒子と練習をしていると、いつも時間が過ぎるのが速い。黄瀬が加わると尚更だ。
きっと楽しくて楽しくて仕方がないからだろうと青峰は思っている。
いつだって楽しい時間は速く過ぎて、授業のようなつまらない時間は長くいつまでも終わらない。
授業時間と部活の時間が逆転してしまえばいいのにと、一体何度思っただろう。
ちらと目をやった体育館の時計はまだ6時に差しかかったばかりで、普段であれば部活動を終え、自主練習に移る頃合いだ。

―――つまるところ、黒子と一緒にいる時間がいつもよりずっと少ない。

雨に降られるのは面倒だし、そうならないうちに帰ろうという気持ちも少なからずあるのだが。
なんとなく返答を鈍らせてしまうのは、「まだ黒子と過ごしたい」という素直な欲求からくるものだった。

「青峰くん?」

返答のない青峰を訝しんだのか、黒子がひょいと青峰を覗き込む。
その距離の近さに思わず、ちゅ、と小さく口づけてしまえば、一瞬ぽかんとした黒子が数拍の後にどぎまぎと視線を逸らした。

「……キミの唐突さには正直呆れます…」
「…ワリ。」

ぽりぽりと耳の裏を掻いて、おざなりに謝罪する。
黒子とスキンシップを超えた触れ合いを持つようになったのは、黒子がレギュラー入りを果たした少し後からだ。
誰も知らない、自分だけが知っている宝物のような、誰にも教えたくない秘密のような、黒子はそんな存在だった。
それが赤司に知られたあの日から同じ一軍メンバーの知るところになって、自分だけが気づいていたはずの黒子の存在に他の誰かが気づき始めて、――最近では、ツンケンしていたはずの黄瀬までもがまるで忠犬のように纏わりつくようになった。
じわりと青峰の胸の内を焼いたのは、子どもじみた独占欲。
もともと黒子に対してのスキンシップは過剰な方だったと自覚しているが、それがどこから来るものなのか、青峰はこのときまではっきりとは知らずにいたのだ。
黒子に向ける独占欲の根底にあるものがなんなのか、それに気づいた後の青峰の行動は早かった。
無意識のうちに己を抑えることをやめた。
正面切って好きだと伝えることは出来なくても、今まで以上に黒子を構い倒し、冗談めかしてその肌に触れた。
黒子が嫌がらないのを良いことにひとつひとつ距離を詰め、逃げ場を奪い、幾度となく口づけて、黒子を自らの腕の中に囲い込んだ。
時に無邪気を装い、時に強引に迫って翻弄し、彼が自分以外の誰をも選ぶことがないように。
それが功を奏したのかは知らないが、青峰も黒子も互いにはっきりとは言葉にしないままに、事実上「恋人」の立場を手に入れた。
たった二文字、言葉にしてしまえばきっと一秒もかからない。
けれどその二文字を伝えられないまま、ずるずると時間ばかり重ねている。

(どんな声で啼くか、イく顔まで知ってんのに)

その唇が綴る、「好き」だけを知らない。

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