「…行くか、テツ」
「はい」

体育館の鍵を締め、渡り廊下を歩く。
来たときと同じように青峰はちゃりちゃりと鍵をもてあそびながら、片手は黒子の手を掴んでいた。
空模様を見て外の連中も早めに切り上げたのか、いつもなら聞こえる威勢の良い声も今はない。
第4体育館は他とは少し離れた位置にあるためか、生徒の姿も見かけなかった。
誰の目もないならと、自分よりもずっと小さい黒子の手に指を絡ませる。いわゆる恋人繋ぎだ。
ほんの一瞬ぴくりと反応した黒子が、青峰の手をそっと握り返した。
隣に視線をやっても、背の高い青峰からは俯き気味に歩く黒子のつむじしか見えない。
けれどさらさらと風に流れる水色の間からほんのり赤く色を変えた耳が見えていて、青峰はふと目元を和らげた。

黒子の気持ちを確かに感じるのは、こんなときだ。
言葉にしない、言葉にできないずるさはお互い様。けれど何より雄弁に語ってくれるものがある。
……物足りなさまでは、拭えないけれど。

はあ、と小さく、黒子に気づかれないように息を吐き出しつつ、握った手を離さない。
こうしていられるのも、人影の見えないこの場所だから。校舎に入るまでだけだ。
ぎゅっと握った小さな手から確かな温もりを感じ取り、穏やかに流れる時間に心地良さを覚えながら、渡り廊下の途中から中庭を抜けて部室棟へ向かおうとしたところで――突如として、空が泣き出したのである。
しっとりとしていたはずの時間が、急に慌ただしく動き出す。

「おいおいおいマジか!!」
「これは…逃げ場がありませんね」
「なに冷静ぶってんだテツ!」

よりにもよって、縦に長い中庭の途中。
渡り廊下に戻るにも、部室棟のある昇降口へ駆け込むにも距離がある。
大粒の雨は容赦なく降り注ぎ、ずぶ濡れになるのはあっという間のことだった。

「と、とりあえず走んぞ!」
「え、でも青峰くん、これだけ濡れてしまえば急いだってどうせ――」
「仮にも一軍選手が身体冷やすな!!」

少しでも早く部室棟に、と促す青峰に、彼の譲れないこと以外では案外諦めの良い黒子が口にした反論は、綺麗に一蹴されてしまった。
いつもなら黒子の方が青峰を言い負かす側であるのに、最もなことを最もな顔で言われてしまっては、さすがの黒子も言い返せない。
青峰のくせに正論を、と得意の無表情で負け惜しみついでのからかいを口にする暇もなく、繋いだ手はそのままに、青峰に引かれるに至ったのだった。


* * *


「あお…ッ、も、むり、です…!」
「あー!!ったく!」
「う、わっ」

ぜえぜえと息の切れた黒子を見かねたのか、青峰がぐいと黒子の腰を引き寄せる。
そのままひょいと小さな子どもでも持ち上げるように抱き上げられて、急に高くなった視界と体勢の不安定さに慌てた黒子は咄嗟に青峰の肩にしがみついた。
人ひとり抱えているくせに、ぐんと青峰の走るスピードが上がる。
黒子の腕を引いていたときはあれでもこちらに合わせてくれていたのかと思うと、なんとも悔しい気持ちになった。けれど。

「お、下ろしてください青峰くん!」
「うっせー!いいから掴まってろ!」

あとちょっとだから、と叫んだ青峰は、宣言通りまもなく校舎の中へと飛び込んだ。
部室棟と教室棟、特別教室棟への玄関口となるそこはコモンホールを備え、昼間であれば多くの生徒が行き交う場所である。
放課後の今はがらんとして、廊下の奥の昇降口だけがやけに騒がしい。同じように雨に降られた生徒たちがてんやわんやしているのだろう。
部室棟の方はあらかたが引き上げたのか、案外に静かだ。
人の姿が見えないのを良いことに、青峰は黒子を抱き上げたままロッカーを目指して再び走り出した。




「……あんなに、下ろしてくださいって言ったのに」
「誰にも見られなかっただろうが。いーからとっととTシャツ脱げ」
「っぶ、」

ぼふりと投げ付けられたスポーツタオルを顔面で受け止めて、黒子はじとりと青峰を睨んだ。
睨まれた側の青峰は黒子の視線など気にするそぶりもなく、また一枚タオルを取り出すところだったけれど。

黒子がようやく地面に足を付けたのは、ロッカールームに入ってからだ。
途中誰にも見られることがなかったのはもはや奇跡に近いと黒子は思う。
バスケ部一軍のロッカールームは、部室棟の一番奥だ。体育館からは少し離れるが、シャワールームに一番近い。且つ、一番広かった。
壁に沿って細長いロッカーが並び、部屋の中央には両側から腰掛けることのできるベンチが間隔を空けて二本。
その正面にはホワイトボードと、DVDデッキの付いたモニターが二つだ。折り畳み式のデスクも奥に片付けられている。
ころころと転がっているバスケットボールはご愛嬌。
二日前に青峰がベンチに投げ出して行ったグラビア雑誌は、桃井の手によるものだろう、へし曲がってゴミ箱に刺さっていた。
部屋の隅では小ぶりの冷蔵庫が小さく唸っていて、マネージャー陣が片付けてくれるボトルやコップが備え付けの棚に整然と並ぶ。
広がるのはいつもと変わらない部室の光景のはずだ―――けれど、窓から見える外の景色が雨に濡れて灰色だった。

「テツ、傘は?」

外の様子に眉を寄せながら青峰が薄いカーテンを引いて、がしがしと乱暴に頭を拭いながら黒子を振り返る。
黒子もまた投げられたタオルで水滴を拭いながら、幾らかむすりとした声色で返した。

「ボクの置き傘、勝手に使ったのキミでしょう…?」
「あー……」

そういやそうだった、とどこか気まずげに視線を逸らす青峰は、どうやら今の今まで本気で忘れていたらしい。
部室のロッカーには貴重品は置かないからと、皆大抵鍵はかけないままにしている。
入り口の鍵は赤司が厳重に管理していたし、バスケ部の熱狂的ファンだとか黄瀬の追っかけだとかでも、あの赤司を敵にしてまで一軍のロッカールームに忍び込むような度胸ある輩はさすがに存在しないだろうという見解からだ。
しかしながら同じ一軍選手の中にも敵はいるもので、菓子を隠しておこうものならいつのまにやら紫原の腹に収まっているし、バスケットにあまり関係のないもの(黄瀬の雑誌とか写真集とかアルバムとか、青峰のグラビア雑誌とかエロ雑誌とかDVDとかそんなものだ)は、場合によって赤司の新たな脅迫材料になることもあるから気は抜けない。
黒子の置き傘もまた、つい先日黒子が家の用事で部活を休んだ日に大雨が降り、青峰が使ってしまったのだった。

「こういうのって自業自得?っつーんだっけ?」
「全然違います馬鹿ですか…っくしゅ、」
「おい、」

途中で切れた文句の代わりに聞こえた小さなくしゃみに、窓際にいた青峰が黒子へと歩み寄る。
薄水色の髪からぽたぽたと雫が滴っているのを見て小さく舌打ちすると、青峰は黒子の掴んでいたタオルを奪い、乱暴に拭いだした。

「いたッ、痛いです青峰くん!」
「うっせ!仕置きだ仕置き!とっとと脱げっつってんのに、よッ」
「わッ」

拭い始めたときと同様唐突にタオルを取って自らの肩にかけると、青峰は黒子のTシャツを勢いよく引っぺがした。
強制的に幼い子のする「バンザイ」をさせられた黒子が自分の状態を察知するより先に、青峰は再びタオルで黒子の肌を拭いだす。
半裸になってひやりとした空気を感じるより前に混乱が襲って、黒子は黙々と自分の世話をする青峰に待ったをかけた。

「じ、自分でできますから!」
「んぁ?」
「タオル!!」

よこせとばかりに手を突き出せば、どこかしぶしぶとした様子で青峰がタオルを手渡してくれる。
自分だって濡れたTシャツを脱いでもいないくせに、放っておくと黒子のことばかり気にかけるのだ、青峰は。
それを嬉しくもくすぐったくも思うけれど、「風邪をひく」という条件においては青峰も黒子と変わらない。
黒子よりかは丈夫かもしれないが、よく油断しては風邪をひいているのを知っているから尚更だ。

「青峰くんこそ早くそれ、脱いでください」
「ん〜、」

ぴし、と指で濡れたTシャツを示せば、たったいま思い出したような緩慢な仕草で脱ぎ始めた。
露わになる身体は黒子の薄いそれとは違って未成熟ながらしっかりと鍛えられて、思わずどくりと心臓が高鳴った。
部活中にだって何度となく目にしてきたし、合宿では風呂だって一緒だったし、あまり公にはできない付き合いだってしているというのに、何を今更と小さく頭を振る。
視線を逸らそうとするのに逸らせなくて、思わずまじまじと窺っていれば、濡れたTシャツをベンチに放った青峰がちらりと視線をよこして笑った。

「……テツのエッチ」
「馬鹿ですかキミは」

言いながら、そっぽを向いて俯く。
ここが薄暗くて良かった。ほんのりと頬にのぼった朱色も、ここではきっと目立たない。
どこまでごまかせたのかわからないが、黒子の辛辣な返事を「ツレねェなあ」と笑い飛ばした青峰が、黒子の横を通り過ぎてひとつのロッカーを開けた。
青峰の隣のロッカーは、緑間のものだ。何やら物色した後で小さく舌を打つと、今度は逆隣の黄瀬のロッカーを開ける。
ふわりと良い香りがした気がして視線を向けると、青峰はわずかばかり眉をしかめていた。
かいだ覚えのあるこの匂いは、確か黄瀬をイメージして作られたというコロンのものだ。
爽やかな香りを黒子は好いていたけれど、青峰は人工的な匂いはあまり好きではないと言っていたからそのせいだろう。
難しい顔をしながらも目的の物を見つけたらしい青峰がロッカーから引っ張り出したのは黄瀬のバスタオルだ。
部活の後に必ずシャワーを浴びていく彼は、いつも二、三枚ロッカーにストックしている。
それにぽふんと顔を埋めて匂いを確かめた青峰はますます嫌な顔をしていたが、この状況下では仕方がなしと妥協したのだろう、広げると肩を覆うようにはおった。
それから再び自分のロッカーを開けると、今度は予備のジャージを取り出す。
黒子は家に持ち帰ってしまって置いていないが、替えがあるなら素直にそちらに着替えればいいのに。
そう思っていると、青峰がひょいと手にしたそれを投げてよこした。

「え、青…」

反射的に受け取って青峰を見返すと、青峰は自分のロッカーを背に床に座り込んでいた。
膝を立て、そこに腕を乗せて、だらしなく開いた足の間にはちょうど人ひとりすっぽり収まるようなスペースが作られている。

「さすがにシャワー室の鍵はねェからよ。…テツ、」

斜めにこちらを見上げてくいと顎で促す仕草に、青峰が何を求めているかは言葉にされずとも理解できた。

「…お邪魔します」
「おー」

ぽつりと断りを入れれば青峰が笑った気配があって、足の間に腰を下ろすと、すぐさま自分がはおったバスタオルで包み込むように青峰の腕が回された。
ぐいと引き寄せられて、いつもされているように囲い込まれる。
部活の休憩時間や、屋上でお昼御飯を食べた後。青峰はよくこうして黒子を抱きたがった。

「あったけ…」

すり、と擦り寄り、もっと近くにと言わんばかりに黒子を抱き寄せる仕草は、まるで大型の猛獣がじゃれつくようだ。
青峰が黒子に甘えてくるのはいつものことだったから、黒子はふと頬を緩め、自分を優しく束縛する腕をぽんぽんと叩く。

「青峰くん、風邪、ひかないでくださいよ」
「バーカ。オレの台詞だっつの」

ちゃんと被っとけと促されて、渡された青峰のジャージで胸もとから膝を覆い、青峰の胸に背を預けてもたれる。
幾ら拭ったとはいえ雨に濡れてしっとりとした肌はぴたりと吸いつくようで、黒子ははあと息を吐き出した。
自らの内に籠った熱を吐き出すようなそれは、やけに大きく響いた気がした。

「……雨、止みませんね」
「ああ…ま、しばらくは無理だろ。真っ暗になる前に上がりゃいいけど」
「お腹空いてきちゃいました」
「帰りマジバ寄ってくか」
「はい。バニラ「今日はあったかいもんにしとけ」……。」

バニラシェイク、と続けるのを邪魔されて、ぷくり膨れた黒子の頬を青峰がつつく。
幼い悪戯への無反応を吐息で笑われたのがわかって、黒子は首を傾けて青峰の指先にやんわりと噛みついて抗議した。
いてェよ、そう言って指を引きながら、再び笑う声が優しい。
黒子が青峰の指を傷つけられるはずなどないのだと、青峰は理解しているからだ。
ふと会話が途切れる。
けれど青峰との間に流れる沈黙は黒子にとって心地の良いもので、さして気にしたことはなかった。
きっと青峰も同じだったと思う。
…それがどうして、今日はこんなにも落ち着かない気持ちになってしまうのか。

(……青峰くんの、)

心臓の音が近い。触れる肌も、熱い。
こんなふうに触れ合うのはいつも青峰のベッドの上だった。
青峰の家族の不在を狙って二人きり。
ただNBAのDVDを観るとか、発売されたばかりのバスケ雑誌を片手に菓子を摘むとか。時に青峰の勉強を見てやることもあったけれど。
大抵は青峰の仕掛けるキスで、部屋の空気の密度が変わるのだ。
秘密めいて淫らな、ほんの少しの罪悪感と、上回る期待と。
肌に触れる青峰の手の熱さはたぶん、黒子しか知らないものだ。
リズムの速まる鼓動に気づかれたくなくてほんのわずか身じろげば、ぞろりとうなじを舐めていく熱い感触があって、黒子は小さく息を呑んだ。

「ッ、あお…」
「…テツの、匂いがする」

密やかにささやくような低く掠れた声は、けれど確かに耳に届いて黒子の体温をかっと上げた。
ちゅ、と、今度は確かに首筋に口づけられ、また舌でねぶられる感覚にふるりと肩を震わせて、黒子はきゅっと唇を噛む。

「……悪ィ、テツ」

止まんねぇ。

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