振り下ろした切っ先に、落ちる音は案外に軽かった。
もう何度も繰り返してきたそれに今更何を思うでもなく、
剣の先からぬるく伝ってくるねばついた血をたったいま伏した男の衣服で拭った。
薄暗い路地裏の、地元の人間ですら滅多に立ち入らないようなその場所。
墓場にするには淋しい場所だが、ボンゴレの領域で薬を売りさばいた男の末路としては当然だった。
身をかがめていた男が膝を伸ばして立ち上がると、その輪郭があらわになる。
さらと夜風に靡いた銀の髪は、腰ほどまでに伸びて長い。
ぱちぱちと点滅を繰り返す離れた先の電灯の光さえ受け取って、夜闇のなかで不釣合いに美しく輝いていた。
鼓動を刻むのはその場にただ一人きりで、誰もその様を目にすることはなかったけれど。
絶命した男を銀灰の瞳がちらりと一瞥し、すぐさま興味をなくしたように視線を反らす。
それから胸のあたりに手をやって取り出すのが、専用の通信機だ。
今回の任務は、9代目からの勅令だった。
薬がばらまかれていることを知るや否や、ただ一言、斬れと命じられた。
穏健派で知られるその人が鋭い一面を持ってもいることは、嫌というほど知っている。
もう、8年になるだろうか。
ただ一人そばにいたいと願った、守りたいと願ったその人を手放してしまってから。
凍てつくその様をただ見ていることしか出来ずに、屈辱の生を強いられた。
いまなおこうして自分が息をしているのは、他でもなく紅い目をした男のため、ただそれだけだ。
プツと軽い音を立てて、通信が繋がる。
これを寄越したのは9代目であったから、恐らくはその人が出るのだろうと予測していたのに対し、
通話口に立った声は聞き慣れた別の幹部のものだった。
少々意表を突かれながら、スクアーロはその声に応える。
『仕事は終えたのか』
「当たり前だぁ。だから連絡入れてんだろぉが」
『首尾は』
「ヘマなんかすっかよぉ。ナメてんのか、てめぇ」
『直に検分が行く。それから帰投しろ』
「りょーおかい。つーかよぉ、」
9代目はどうした。
そう訊けば、一瞬、押し黙る気配。
何か知られてまずいことでもしてるのかと重ねて問えば、今はここにはいない、とだけ答えた。
暗殺を命じた後で、任務完了の報告を聞く前に9代目が席を立つことはそう多くはない。
よほど急ぎの用でも出来たのだろうかと、大して気にはかけずにそうかと流した。
通信を切って5分も経たないうちに検分役の男と処理班とが現れ、幾つか調べると男の死体を乱暴に持ち上げた。
どうするのかと問えば、見せしめに吊るしてやるのだとの返答。
趣味がいい、と皮肉ってやることを忘れずに、スクアーロは踵を返した。
* * *
帰り着いた先は、ヴァリアーの屋敷だ。
主を失って久しいそこは、見慣れたはずなのにどこか色褪せて見えた。
まだ日付の変わらない時間だったが、たとえ朝に近い夜中であろうと屋敷の内は絶えず動いている。
幹部であったり、隊員であったり、対象は違えど皆任務のために正常な時間の流れは存在していなかった。
今日もまたそれは同じで、玄関ホールに姿を見せるなり奥の厨房に続く扉からルッスーリアが現れた。
「あら、おかえりなさいスクアーロ」
「おお。んだぁ、夜中だってのに料理でもしてたのかよぉ」
「ふふ、ついさっき帰ってきたところでね。小腹が空いたものだから…一緒にどう?」
夜だから、一人で食べたらダイエットに障るわ、と続く言葉を聞いて、悪くないなと返した。
返り血など一滴も浴びていないから、このまま彼の部屋に向かっても支障はないだろう。
焼きたてのクッキーの皿を手にした彼と連れ立って、長い廊を歩む。
途中、こちらの姿を見止めて軽い挨拶を寄越す部下はいても、邪魔だとののしる懐かしい声はない。
任務の間に思い出したのがいけなかったのだろうか。
感傷的になっている自分に気づいて、スクアーロは苦笑を零した。
「あら、どうしたの?」
すぐ隣を歩く、自分よりも背の高い彼がそれに気づかないはずもなく、問いを寄越す。
いや、なぁ、と少々おぼつかない返事をして、あんときのこと考えてた、と短く告げた。
「…ボスのことね。」
「ああ…」
急に、しん、と静まり返ったような印象さえ受けるのはどうしてだろう。
誓って伸ばし続けている銀の髪は、スクアーロが歩くのに合わせて背で揺れていた。
幼い頃、伸ばし始めでまだ短かった時分にさえ、物珍しいのかよくその手に引かれていた髪だ。
もしもいまあの男がこれを目にしたなら、何と言うだろうか。
引いて、馬鹿じゃねえのかと罵ってくれたっていい。
ただ無性に、あの声が聞きたくて、あの瞳に自分の姿を映したくてたまらなかった。
行き着いた部屋は、綺麗に整頓されていた。
相変わらず行き届いてるなと言えば、褒めたってクッキーしか出ないわよと彼の返事だ。
ティーポットを戸棚から取り出した彼が向かう先は、部屋にも備えられた簡易キッチン。
湯を沸かす間に摘んでいればいいとクッキーを示されて、スクアーロはひとつ口にした。
ふわと香ばしい匂いが鼻を抜けていって、もういつのことになるだろう、屋敷の裏の芝生に寝転がって、
ルッスーリアの焼いたクッキーを二人で食べたこともあったなと思い出す。
あの頃は、今よりもずっと幼かったけれど、今よりもずっと満たされていた。
足りないのだ。
自分にとって一番大切な一欠片が、今は足りない。
原因のすべては、自分の力不足。
無意識に握った拳に、緩やかな動きで異なる体温が重なった。
「…ルッス」
「だめよ、傷つくわ。勝手に傷なんかつくったら、ボスに怒られるでしょう?」
だから収めなさい、と諭されて、けれど拳を解く気にはなれない。
ぎりと歯噛みさえするスクアーロに、気づかれぬように嘆息してサングラスの奥で瞳を緩めるルッスーリアだ。
「…っけど、あのとき、オレさえ動けてりゃあ…!」
「スクアーロ」
「みすみす、あいつを囚われなんかしなかった…っ」
ただ一人の主はいまも、この8年、どんなに探しても、どんなに侵入を試みても、一度たりとて辿り着けたことのない深淵に囚われている。
8年前、凍てついたあのときのままの姿で。
それがどうにも悔しい。悔しくて、哀しくてたまらない。
欲しいと願うのは、ただひとつ、あの紅だけだ。
高潔で、孤高なまでに美しい、あの紅い瞳。
あの色だけが、どうしても欲しい。
何度詫びたって足りない。何と声をかけたらいいのかもわからない。それでも。
それでもただ、あの男だけが欲しい。
搾り出すように告げるスクアーロに、ルッスーリアは何を言おうかと迷った。
握り締めた手を震わせて、流れた銀糸で表情を隠して、漂う気配はいっそ哀しいくらいに入り乱れている。
自分達が頂とするその男が凍てつく様を目にしたのは、ヴァリアーのなかでは彼だけだ。
だからきっと、自責の念は自分よりもずっと強いに違いない。
元々、純粋すぎるほどに純粋だった彼のこと。自分を許すことなど、きっと出来ない。
困ったわねぇ、と溜息をつきかけたところで、スクアーロが弾かれたように顔を上げた。
「…スクアーロ?」
問うのに、彼はこちらに欠片ほども意識を向けていない。
ただその銀灰の瞳を見開いて、確かめるようにその気配を研ぎ澄ませている。
集中させているそちらの方をルッスーリアもまた探ってみて、同じように目を見開いた。
遠く、けれど遠すぎないその距離に、荒れ狂う気配。
きっと自分ひとりなら気づかなかった、彼が気づいたからこそ気づけたと思うほどにわずかな。
けれど確かに覚えのある、懐かしい気配。
信じられない。まさかと思う。けれど。
「ルッス!」
間近で叫んだスクアーロの声に、は、と我に返れば、まるでいまにも泣き出しそうな色でこちらを見上げる瞳があった。
言葉になんてしなくていい。わかる。伝わる。
すぐにでも駆け出したいのだろう、腰を上げた彼に一言、行くわよ、と告げれば、おう、と力強い返事だ。
蹴破るようにドアを開いて廊に出れば、屋敷内もいつになく慌しい様子を見せていた。
そのうちの一人がこちらの姿を見止めて、
「本部から至急の連絡です!」
* * *
荒れ狂う炎はすべてを支配していた。
その中心に立つ男の全身を覆う凍傷の痕は痛々しいほどの赤黒い色をしていて、
けれどその痛みを彼は感じているのだろうか、ただがむしゃらにその力を解放させていた。
炎は幾人もの人間を飲み込んだ。生きた証など何一つ許さなかった。
凶悪で強力でひどくもろい、その炎は行く先を迷っては主へ還り、その傷を深めては散っていった。
ボンゴレの本部に戒厳令が布されたのはつい先ほどのことだ。
はじめは地鳴りかと勘違いした者もいただろう。
地の底から、まるで怒りで震えるような振動が伝わってきた。
それはかすかなものではあったけれど、直にその場にあったものすべてを飲み込んだ。
"覚醒"したのだと、そのとき誰が気づけただろうか。
危惧していたことが現実になった、と、薄れゆく意識のなかで思ったのはスクアーロの報告を受けた幹部の一人だ。
彼は唯一、ドン・ボンゴレの向かった先を知っていた。
いつから思っていたのだろうか。
彼は己が手でその時を止めた息子の眠りを解きに行った。
跡目となる十代目が遠く離れた異国の地にいる子供に決まったのは、わずかに一ヶ月前だ。
誰よりも聡明でいたその人が、一息、ほんの一息吐き出したことがすべての始まりか。
それともこれはすでに人の力の及ばないところで定められていたことだったのだろうか。
異変を感じて罪に濡れた紅が眠るその場所へ辿り着いたとき、すでに炎は侵蝕を始めていた。
己の眼前に伏していたのは、9代目その人だった。
そうして足を運ぶよりも早く、炎は男を襲った。
圧倒的な力に男の身体は吹き飛ばされ、生命活動が維持できないほどの火傷を負った。
荒く、けれどすでにか細い呼吸の下、男は罪の名を呼んだ。それが最期だった。
* * *
早くと急がせるスクアーロをたしなめながら、ルッスーリアは本部へ車を走らせていた。
伝令が伝えたのは、本部が壊滅状態にあるとの一報。
屋敷の一部はすでに吹き飛び、死傷者は数え切れないほど。
恐らくは炎によるものだと聞いて、確信を得た。
表向きは、本部からの救援要請に応えて。
けれど実際には、この8年一度も目にすることのなかった主を己が眼に映すためだった。
心臓が早鐘を打つのを、スクアーロは押さえられなかった。
その生を疑ってなどはいなかった。一度たりともだ。
けれどこうして、ずっと望んでいた気配をわずかにも捉えて、その無事を確認せずにいられるほどには自分は落ち着いた人間じゃない。
どこに、いたのだ。どこで、生きていてくれたのだ。
今の自分の姿を見て、彼は自分が自分だとわかるだろうか。
きっと混乱しているに違いない。混乱して、その力を暴走させているに違いない。
そこに行って、自分は何が出来るだろうか。何も出来なくたっていい。
自分を自分だと認識できなかった彼に、例えこの命を差し出すことになってもいい。
ただ、会いたかった。
滑り込む、という表現が正しいかどうかは知らない。
けれどこれ以上はないのだと言うほどの勢いでボンゴレ本部の敷地内に車を走りいれると同時、スクアーロはドアを蹴って飛び出した。
暗い夜空に、屋敷の一角から赤々とした炎が立ち上っている。
長く目にすることのなかった、紅い色。
あの男の持つ、あの男だけが持つ憤怒の色だ。
「スクアーロ!」
車を乗り捨てたルッスーリアが立ち止まって炎を見つめるスクアーロの隣に追いつき、声をかける。
炎に照らされた銀色は不釣合いにそこに映え、その男の唇は歓喜からかわなないていた。
「…なあ、ルッス」
その唇から、スクアーロは静かに言葉を紡いだ。
何かを言いかけていたルッスーリアだが、それを聞いて口を噤む。
「…生きてた」
生きていて、くれた。
その事実だけで、もうどうなってしまってもいいと思えるほどには、彼の存在に飢えていた。
頭のなかが真っ白で、働いてくれない。
彼に何を伝えたかっただろう。ただ彼だけを欲していた、そのはずなのに。
"ザンザスが、生きている"
その事実に、すべてを忘れた。
その事実だけが、スクアーロのすべてを支配した。
衝動が熱いものになって目の奥へと上るのに、けれど歯を食いしばる。
いまはまだ、泣くべきときではない。あの男のもとへ行かなければ。
孤独に耐え、混乱を抱えながらもいま生きてくれている、ザンザスのもとへ。
スクアーロの瞳が元の色を取り戻したのを確認して、ルッスーリアは口を開いた。
「いま、レヴィがこっちへ向かってるわ。マーモンとベルを連れてね。
これだけ被害が大きいと、しばらくは幻術でごまかさなくちゃいけないでしょう。
…ボスには悪いけれど、お目覚め早々に出費が嵩むわね」
ふふ、と笑って、スクアーロを促す。
「行きなさい。これだけ混乱してれば、貴方がボスの所へ向かったって、誰も止めやしないわ」
どこにいたのか、いままではわからなかったけれど。
これだけ気配がしているんだもの、貴方ならわからないはずないでしょう。
だから行きなさい、と言うのをその視線を見返しながら聞いて、ああ、と一言返した。
駆け出す足は、急いてもつれそうなほど。
それを見つめながら、ルッスーリアはふと息を吐き出す。
「…ずっと、一人で耐えてたのねぇ…」
お願いだから、あの子のことをわかってあげてちょうだいね。
まだ目にはしていない、ただ一人の主に胸中で呟いた。
* * *
一帯は焼き尽くした。
もはや己の支配下を離れつつある炎を持て余しながら、男は紅い目で辺りを見回した。
黒く焼け焦げたコンクリートと、わずかに原型をとどめた死体。実に無感情にそれを見る。
記憶を揺り起こそうとして、それがずいぶんと遠いところにあるものだと男は気づく。
ここは、一体どこだ。
ボンゴレの内部に知らない場所はないはずだったが、この場所は記憶にない。
無機質で冷たい、こんな場所は知らない。
そうしてふと、己の立つ場所を見下ろした。
四方に倒れた熱い鉄の壁と、鉄の鎖。足元には、いつか目にした指輪。
それから少し先に、倒れている年老いた男。
すべてを視界に入れて、男は記憶を取り戻した。
この男に、自分は凍りつかされたのだ。
腹の奥底から湧き上がってくる怒りを、止める術を男は持たない。
否、止める術は他にあったのだ。男自身がコントロールするのではない。
ただ一人、冷たい銀色だけがそれを為し得た。
けれどいまこの場所に、その銀色は見えない。
伏した男は、自分の記憶にあるよりもずっと老いて見える。
一体どれだけの時を経たのだろうと、男はふと恐怖に似た感情に襲われた。
急激に揺れ動いた感情に呼応するように、発する炎が大きく揺らめく。
四散するように炎が床を走り、壁を舐めた。
傷痕が灼けつくように痛み、また自らの発する炎に焼かれてなお、それは止まらなかった。
このままでいたならば待つのは自滅のみだと、男がそう悟りかけたそのときだ。
「――――ッザンザス!!」
記憶にあるよりも低い、けれど自分が知っている、己の耳にはよく通るその声が自分を呼んだ。
炎を発したままに、ゆっくりとその方を見遣る。
長く伸びた銀の髪を熱風にあおられ、背の向こうに靡かせた男がこちらを向いて立っていた。
その男は、記憶にはない。
けれど記憶のなかにある顔のひとつと奇妙に一致して見えた。
備わった直感よりも、本能が告げただろうか。
「…スク、アーロ」
紅は違うことなく、銀の名を言葉に乗せていた。
銀色はまるで痛みに耐えるように、慈愛をたたえるように、涙をこらえるようにその瞳を細め、主のもとへと走った。
傷ついた身体から発される炎は衰えず、息苦しいほどの熱気を放っていたけれど、それすら気に留めないように。
そうして主のもとへ行き着くと、自分よりも一回り小さいその身体を抱きしめた。
それに刹那のあいだ瞠目し、渾身の力で振り払おうとしたのはザンザスだ。
「…っめろ!離れろ!!」
ザンザスの放つ炎は、スクアーロにも容赦なく襲い掛かった。
吹き飛ばす勢いは携えていないけれど、その熱量は変わらずそこにある。
火花が散るように中心に位置する二人を炎が覆い、スクアーロの身体にも火傷を作っていく。
コントロールが効かないのだ。だから離れろ。離せ。
ザンザスがそう暴れてみせたところで、8年の歳月はあまりに大きい。
いくら恵まれているとはいえ、まだ成長期であるその体躯は成人した男にはやすやすと押さえ込めるものだった。
ヴァリアーの制服が焦げ、一部は溶けるようにして燃え、赤く腫れた皮膚が次第に水ぶくれを作ってなお、
スクアーロはザンザスを離すことをしなかった。
二度とは離してなるものかとでも言うように、その身体を強く抱きしめた。
「スクアーロ!」
叫ぶようにザンザスが呼ぶのに、スクアーロはようやく口を開く。
「…ずっと、待ってた」
あんたを。あんただけを、待ってた。
だから、なあ、いいんだ。このまま屠られるならそれでもいい。
あんたの炎だ。あんたの炎を鎮めることが出来るのは、このオレだけだ。
「なあ、ザンザス、」
…おかえり。
耳元で聞こえたのと、同時。
荒ぶっていた炎は、一度大きくその身を翻させると、ゆっくりと収束を始めた。
辺りを覆っていた熱気が少しずつ中心に向けて冷え始め、煌々と燃え盛っていた炎は揺らめいて衰える。
高熱から光を帯びていたザンザスの手からもそれが引き、元の色を取り戻す。
穏やかに降る雨が緩く炎をとどめるのと同じように、ゆっくりと、けれど確実に。
ぴたりと合わさった胸元で鼓動が重なるのを、彼らは感じたのだろうか。
8年という歳月を経て、ようやく取り戻したそれと、8年の間待ち続けたそれと。
異なるふたつの鼓動が、ゆっくりと同じ時を刻み始める。
そうしてその部屋から熱源が消える頃、ルッスーリアを筆頭としたヴァリアーの幹部が主のいる場所へと辿り着いた。
彼らが目にしたのは、主を抱いてゆっくりと崩れ落ちるスクアーロの姿と、同じように意識を失う主の姿だった。
* * *
「う゛お゛ぉい、ルッス、ザンザスに会わせろぉ」
「おバカ!あんたはあと一週間はそのベッドの上よ!」
りんごをうさぎ型に剥きながら、ルッスーリアはスクアーロを怒鳴りつけた。
ベッドの上の身体には至るところに白い包帯が巻かれ、点滴すら外れていない。
意識を取り戻したのも、つい昨日のことだ。
ザンザスが覚醒したあの日から、一週間を経過しようとしていた。
「あんたね、全身火傷で死にかけてたのよ!ボンゴレの医療班じゃなかったら今頃墓の下よ!」
「…んなこと言われてもよぉ…」
記憶ねぇからわかんねぇよ、という口に、ルッスーリアは剥いたばかりのりんごを突っ込んだ。
むぐ、とくぐもった声をあげて目を白黒させるスクアーロに、りんごのひとつでも食べれるようになってからにしなさい、とぴしゃりと言い放つ。
実際、スクアーロはまだ口から摂取することをしていなかった。
それでも口に入れられたりんごをしゃりしゃりと歯で削るようにしながら、どうにか飲み込もうと試みる。
それを見て、ルッスーリアがりんごを取り上げた。
「…ボスだって、三日前に意識が戻ったばっかりよ。まだ動けないわ」
ぽいとりんごをごみ箱に放り込んで、代わりに摩り下ろしたりんごをくれる。
手は動かせるでしょ、ベッド起こすわよ、と電動式のそれを動かして、ようやくスクアーロの視線とルッスーリアの視線の位置が合う。
深めの皿に移されたりんごを受け取って、それをスプーンにすくいながら、
「…そういや、あのあとどうなったんだぁ」
スクアーロには、ザンザスの炎を落ち着かせた後の記憶はない。
けれどザンザスが目覚めたとあっては、ゆりかご当時の記憶を持つ者達が黙っていないはずだ。
それでなくても、屋敷の一部が吹き飛ぶほどの騒ぎだったのだ、こんなに穏やかであるはずがない。
スクアーロが辿り着いたあの部屋には、倒れ伏す9代目と幹部の姿があった。
9代目は息絶えてはいなかったようだが、自分が報告を行った幹部はすでに事切れていた。
室内と屋敷の内外の惨状を見る限り、命を落とした幹部は何もあの男だけではないだろう。
末端構成員に至ってはいちいち顔を覚えていないからどうでも良いが、犠牲者は決して少なくないはずだ。
「…9代目のことは、きっとボスから指示があるでしょう。
今は、マーモンや術士達が交代で幻術をかけて平穏を保ってるわ。
幹部連中も、そうね、三人ばっか死んだみたいだけど、おいおいなんとかするわ」
外のことは気にしないで、いまは身体を休めてちょうだい。
身体が元に戻ったら、あなたにやってほしいことは山ほどあるのよ。
そう言い聞かされてしまえば、動けない自分に返せる言葉はない。
ザンザスがいる部屋はレヴィとベルフェゴールが厳重に護っているらしい。
ヴァリアーの屋敷のなかにあれば、とりあえずは安全ということだ。
ならば自分も、いまは動けるだけの体力を戻すことの方が優先か。
そう思ってりんごを乗せたスプーンを口に入れた、正にそのときだ。
どこかで破壊音が聞こえ、続いてレヴィの慌てた声とベルフェゴールの勘に障る笑い声が聞こえた。
"ボス、まだ無理だ、戻ってくれ!"
"うししし、焦んなくたってあんたのサンドバッグはちゃんと生きてるよ"
"ボス、傷がひら…っ"
ゴッ、と鈍い音が聞こえたのも、多分気のせいではない。
ルッスーリアが深く溜息をつくのは仕方のないことだった。
「…まったく、貴方たちは二人そろってせっかちねぇ…」
ボスの方が我慢できなかったんだから、若い分だけそっちのがせっかちかしら。
言いながら、こちらの扉まで破壊される前にと廊の方へ出向いていく。
「ボス、スクアーロならここよ。…もう、ほんとはボスにも出歩いてほしくないのに」
部屋を別にしたの、もしかして逆効果だったかしら。
口にすれば紅い瞳があからさまな怒気をはらんでサングラス越しの瞳を睨みつけ、
ルッスーリアは溜息をついた。
「お邪魔でしょうから、外に出てるわ。くれぐれも無理させないでちょうだいね」
そう言ってルッスーリアの身体がどくのと同時、待ちわびた姿が見える。
ぱたりと閉じ、外界から遮断された部屋のドアの前に立つ、ザンザスの姿。
それは遠く、けれど鮮やかな記憶のなかにある姿とまったく変わらない。
何も言わず、スクアーロと同じようにそこかしこに包帯をまとった紅い瞳はじっと銀色を見つめていた。
体中を覆い、その顔さえも覆っていた凍傷は、いまは幾つかを残すばかりになっている。
痛々しい色は消えていないけれど、あのときよりはだいぶましなようだ。
生きて、自分の足で立って、紅い瞳に自分を映してくれる、ザンザスがそこにいる。
胸が詰まるようだ、とスクアーロは思った。
「…ザン、ザス」
引き攣る喉は、掠れた音を空気に乗せた。
呼ばれたザンザスが、ゆっくりとその歩を進める。
ベッドの上、身体を起こしたスクアーロを間近に見下ろす位置で、その足が止まった。
そうしてゆるゆるとザンザスが手を伸ばす。
その先には、すっかり伸びた銀の髪。
「…伸びたな」
「…ああ。8年だぁ」
「ずいぶん長ぇこと、眠らされてたらしい」
「そうだな。……長かったぜぇ…」
さらり、ザンザスの指はスクアーロの銀糸を梳いて、その指先に絡め取る。
感触を確かめるように、掌には包帯を巻いた手が幾度も触れた。
幼い頃には、乱暴に掴みも、かき乱しもしてくれた手が、8年の時を経て、いま。
「…ッ…」
溢れ出した感情は、堪えることが出来なかった。
わずかに目を瞠ったザンザスが、ゆるりと唇の端を持ち上げる。
人を小馬鹿にしたようなその表情だって、久しく見ていなかったものだ。
「…8年も先に歩きやがって、中身はガキのままか」
「っるせ、ぇよ…ッ」
「…ドカスが」
言って、涙の伝う頬を指で拭った後、あのときとは正反対に、今度はザンザスがスクアーロの頭を胸に抱いた。
くしゃりと髪を乱す、その手つきが記憶にあるそれと変わらなくて。
傷があるのにだって構わないで、スクアーロはザンザスの背を抱き返してすがった。
「っひ、ぅ、う゛〜…っ」
本格的に泣き始めたスクアーロを、馬鹿な野郎だ、とザンザスが笑う。
うるせえ!と返す声は、涙のせいで揺れていて、ちっとも迫力がなかったけれど。
とくり、とくりと確かに伝わってくるザンザスの鼓動に、スクアーロは心底安堵した。
ずっと、ずっと待ち続けた音だった。
スクアーロが泣き止むのを待って、ザンザスはその名を呼んだ。
名残惜しそうに身体を離しながら、目の前の成人した男はずび、と鼻をすする。
汚ねぇな、と文句をつけながらその顔を見て、ザンザスがぶは、と噴き出す。
大の男が、それも自分に代わって暗殺部隊を統括していたであろうその男が、
目と鼻の頭を真っ赤にして、まだ泣き足りないとでもいうように涙を湛えて情けない顔をしているのだ。
これを笑わずして、何を笑えというのだろう。
「う゛ぅるっせええぇ゛!!笑うんじゃねえ!」
「ぶはっ、てめえ、傷に響くからそのツラやめろ!」
「やめられたらとっくにやめてらぁ!」
ぎゃんぎゃんとわめき、スクアーロの息が切れる頃にザンザスの笑いもようやく収まる。
落ち着かない呼吸を繰り返しながら睨みつける男を見返して、ザンザスは満足そうに唇の片側を持ち上げた。
それは以前スクアーロが好きだった表情で、スクアーロは己の鼓動がどくりと跳ねるのを感じる。
気づいているのかいないのか、ザンザスが顔を近づけて赤くなったスクアーロの鼻の頭をがじ、と噛んだ。
「いでっ」
それから文句を上げた唇にひとつ、触れるだけのキスをくれる。
すぐに離れ、視界がぶれるほどに近くにある紅は、スクアーロの銀灰を真っ直ぐに見つめた。
吐息が触れるその距離で、
「足りるか」
問われて、今度はスクアーロの方から唇を重ねた。
二度目のそれは深く、貪るように口づける。
ザンザスの手がスクアーロの後頭部を支え、スクアーロもまたザンザスに手を回した。
角度を変え、時に唇を離しては口づけを繰り返して、それは、互いの呼吸が上がるまで。
はぁ、と震える呼吸を吐き出しながら、
「ザンザス、」
呼べば、彼の唇が自分の名前を象るのが見えた。
どくどくとうるさい己の鼓動で、その声が耳に届いたかは、もう定かではない。
「ザンザス」
呼んで、口づけて、それを繰り返した。
まだ、何も伝えてはいない。
おまえが欲しかったのだと、それすら口にしていない。
けれど、いまは。
なあ、ザンザス、
言いたかったことも、
欲しかったものも全部忘れた
おまえがいれば、なんだって。
fin.
07.03.24
お題:言いたかったことも、欲しかったものも全部忘れた
ザンスクWEBアンソロジー企画様へ投稿させて頂きました。