Der Antichrist     06.11.25




夜は隷属していると思った。
その男の漆黒に濡れた髪と、滴る血のような鮮やかな紅に。

澄んだ空気が頬を撫でた。
視線をあげれば、薄いカーテンが窓の外へ翻っている。
広がる闇には、白く細い月が覗いていた。
重厚な扉が閉まるのを背に受け、スクアーロは室内へ踏み込んだ。
屋敷の中でも一番奥に位置するその部屋は、他と比べて随分と豪奢な造りになっている。
その部屋の主に物を愛でる趣味があるとは思えないが、あつらえたような調度品がそこかしこに置かれているのだった。
いつだったか花瓶のひとつを割って、後日耳にしたその額に鈍器で殴られるような衝撃を味わったのを覚えている。
文句のひとつも言わなかった、その男への軽い眩暈とともに。
いま己が踏み歩く絨毯も、どこのものでどれだけの値なのか、考えることは放棄した。

静まり返った部屋は、ひとつの物音もしない。
まるで誰もいないようなその空気に、けれどその男が溶け込んでいるのは知っていた。

「…随分と時間がかかったんじゃねぇのか」

寄越された、棘のある低い声に苦笑をひとつ。
今日は背後か、と己の散漫を自嘲もしながら。

「部屋で気配消すのやめたらどうだぁ」
「うるせぇよ。報告は」
「いつもどおりだ、標的と、それから周りにいた面倒そうなのも消してきたぜぇ」

言いながら、かざしてみせた報告書は男の乱暴な手に奪われる。
入室したときからそこにいたのか、入室した後に位置を変えたのかは知らないが、男―――…ザンザスはスクアーロの背後から数歩で歩み寄ってきた。
ふわりと掠めたアルコールに、相変わらずの趣味の良さを感じて肩を竦める。
小さな着火音とともにリンの燃える臭いがして、揺らめいた炎に目を向けた。
瞳に映った様子に、嘆息をもうひとつ。
蝋燭程度の明かりの中、よく書類に目を通せるものだ。

「…そいつ、言われたほど大した相手じゃなかったぜぇ」

任務に発つ前、確かルッスーリアに忠告されたのだ。
今回の相手は面倒だ、とザンザスが口にしていたことを。
もしかすると手練れかもしれない、と耳打ちされ、願ってもいない、そう笑った。
ただ殺すばかりの任務には飽きていたところだ、少しくらい手応えがなければつまらない。
だが相手にしてみれば、確かに銃の扱いは悪くなかったが、手練れと呼べるそれではなかった。
狙いに関して言えば、よほどベルフェゴールが優れている。

「聞いていたのか」
「ルッスからな。あんたが面倒だとか、どうとか」
「相手にするのが面倒だと言ったんじゃねぇ」

ならば、どう。
訊ねる前に、ザンザスは報告書の端を炎に近づけた。
あ、と声にする前に、紙はめらめらと燃え始める。
滅多に使われない灰皿の上にそれを放って、ザンザスは蝋の灯りを揉み消した。

「う゛お゛ぉい、てめぇ、何報告書燃してんだぁ」
「こいつの別な姿を見たか」
「あ゛ぁ?」
「マフィアじゃねぇ、別な生活について書かれた事項があったろう」

唐突な言葉に記憶を探ってみるが、心当たりがない。
そもそも標的の詳細な情報に関しては、任務に関わる事項以外は読み飛ばすことの多いスクアーロだ、
いくら思い返してみてもそれが思い当たる確率は低い。

「…なんかあったかぁ?」
「フン、だからてめぇはカスなんだ」

んだとぉ、瞬間、殺気を放ってはみるものの、上回る殺気を返されて押し黙る。
口を噤んだ方がかしこそうだ。

「…あいつは、敬虔なカトリック信者だったからな」

酷薄に哂う、その表情は見慣れたものだ。
口にされた事実に、そういえば走り書かれたような筆記でそんなことが記してあったと思い出す。
けれどそれが、どうしたというのか。

「あいつはシチリアのマフィアだったろぉ?珍しくねぇんじゃねぇのか」

スクアーロは、神など信じていない。
生きた人間を神として崇めることも、偶像を神とすることも嫌悪する。
けれど、ローマ教皇を中心とするカトリック教の信者は、イタリアには数多い。
特にシチリアを出自とするマフィアには、熱心な信者がいる。
うろ覚えではあるが、ヴァチカンの危機を救ったのもマフィアだったのではなかったか。

「まさか、神罰なんか信じちゃいねぇよなぁ、あんたが」

そうなら笑ってやるぜぇ。
からかえば、冷たい光を帯びた紅がこちらを向いた。
殴られるか、身構えたが、拳は飛んでこなかった。
代わりに、伸ばされた指がするりと唇を撫でていく。
情交の気配に、スクアーロは知らず身体を強張らせた。

「…んだよぉ」
「カトリックじゃ、禁止されてたな」

くっく、と低く忍ばせた笑いに、悪趣味だと告げてやる。

「プロテスタントでも同じだろぉ」
「それくれぇの知識はあったのか」
「これでもイタリア人だからなぁ」

幼い時分は、当然のようにカトリックを教えられたものだ。
神が、神は、神を――――…
聞かされる度、何度神を呪っただろう。
結局のところ、己を救うのは己でしかなくて、立ち上がるのも己の力なのだ。
そこに何者の介在もない。孤独で、それでこそ人で有り得るのだ。
スクアーロの返答に、いよいよ可笑しそうに笑ったザンザスが、くん、と銀の髪を引く。
逆らわずに身を任せれば、厚ぼったい唇と己のそれとが重なった。
夜気に冷えた、その温度を確かめるように舌を這わせる。
乾いて、いくらかかさついていたそれがゆっくりと湿っていく。
アルコールは甘くもなく、苦くもなく、程好い余韻だけを残してスクアーロへと移った。
「ん……」
ゆるり、絡められた舌にくぐもった声が漏れる。
上顎をくすぐり、歯列をなぞって、また、スクアーロのそれと絡まって。
好きに貪っていく目の前の男は、それでいてやけに繊細な動きをしていた。

神への罪悪感など、もとより持ち合わせていない。
それならばこの行為を、いったい誰に咎められ、誰に詫びるというのだろうか。

顎を伝っていく唾液は、どちらのものともつかない。
濡れた音は頭蓋を通って鼓膜に響く。
閉じた視界のなか、それがやけに鮮明で、薄っすらと開いた瞳はザンザスのそれと合わさった。
それを合図に、舌の先を甘く噛んで、ザンザスが離れていく。
呼吸を整える間に、ぐ、と手首を捕まれた。
「う゛お゛ぉっ…て、っめ、何すんだぁ!」
「うるせぇよ」
しゅる、と緩く巻いたタイが外される音がして、後ろ手にひとまとめにされた手首にそれが巻かれる。
血の流れが止まらない程度に、けれどきつく巻かれたそれは、ちょっとやそっとじゃ解けそうにない。
「…ボスさんは、」
言葉を切れば、間近にこちらを伺う気配。
「縛りプレイも好きなのかぁ?」
「……ハッ、言ってろ」
禁忌もなにもあったもんじゃねぇなぁ。
皮肉る言葉も、右から左へと流されるらしい。
冷たい指が、部屋着に着替えていたシャツの裾から忍び込んできて、肩がぴくりと跳ねる。
脱がしにくい制服のままでくるんだったと少しばかりの後悔をしてみて、それはそれでまた倒錯的か、と思い至る。
首筋を這う舌と、わき腹を撫でる指とに吐息が震えた。
かり、と鎖骨を噛まれ、次いで走った独特の痛みに、そこに痕が残されたことを知る。
珍しい、息を吐き出しながら思えば、ザンザスがゆっくりと顔を上げた。
「どうだった」
「あ゛…?」
近づいた、ザンザスの表情は冷酷なそれに変わっていく。
けれどそこに滲んだ情欲は隠せない。
危うげな色をしたままで、ひっそりと耳元で囁くように、
「神を信じる哀れな羊を、血に染める心地はどうだった」
訊かれ、思い切り顔をしかめた。
悪趣味な問いにも程がある、と。
読み取ったか、ザンザスは口の端を残忍につりあげた。
その表情には、相手に対する哀れみの色もなければ、嘲笑の色すらない。
ただ、己の興味を満たそうとする、楽しそうなそれだけだ。
「祈っても、てめぇが救う筈はねぇな」
どう、殺してやったんだ。
聞かせてみろ、と意地悪く問うのに、今度こそスクアーロは嘆息する。

神論者でも
無神論者でも
思いっきり嘆いてやるぜ

ああ神よ、神は死んだ!

「さあなぁ、いちいち覚えてねぇよぉ」

殺す瞬間さえ楽しければ、それでいい。
答えるのに、ザンザスは銀の髪に指を絡めて、それからゆっくりとその身体を傾いだ。
今日は床でか。
諦めるのと同時に、こいつらしい、とどこか納得する自分がいる。この男は支配者であって、絶対だ。
己の思うまま行動し、何者にもそれを縛られない。

(こいつに神なんざ必要ねぇ)
(咎める奴も、詫びる相手もいるはずねぇ)

ゆっくりと揺らいでいく視界は、確かに男の姿を映した。
組み敷かれる、刹那に交わる紅がひどく痛い。
囚われた、己の運命はもう決まっている。

「てめぇ、ロクな死に方しねぇぜぇ、ザンザス」

哂う、男は既に神なのだ。

fin.



06.11.25
title:ニーチェ(独) "Der Antichrist"