宵越し膝枕     08.10.10





昨夜は久しぶりに呑み明かした。
というのも、ヴァリアーに属するアルコバレーノの誕生祝いがあったからだ。
酒に強いのか弱いのか、外見からでは年齢の判断もつかない赤子に呑ませはしなかったが、珍しくベルフェゴールが浴びるように呑んでいたのを、スクアーロはよく覚えている。
口にはしないが、マーモンがひとつ歳を重ねるたび、誰より喜んでいたのはあの男だ。
マーモンが長くは生きられない身体なのだと知ったのはつい三年前のことだが、それを払拭するように、ベルフェゴールは共に過ごす日々を純粋に楽しんでいた。
当然ながらマーモンを自らの腕に抱きかかえたまま、終いには眠り込んでしまったベルフェゴールを自室まで運んでやったのは、案外に酒に強いレヴィだ。
お堅い見た目からは想像がつかないが、実のところスクアーロよりもよほど強い。
ザンザスに最後まで付き合えるのは、ヴァリアーでは彼くらいのものだ。少し気に入らない。
ルッスーリアも顔に出ない方だから、スクアーロの酒の強さは実質三番目だろうか。
当然、そこらの酒豪よりもよほど呑むが。

ベルフェゴールが潰れた後で、なんだか妙な面子になってしまったが酒は美味かった。
ついつい呑み過ぎてしまったのは紛れもない事実だ。
そのせいか今朝は身体がだるい。だが二日酔いに苦しむほどではなく、どちらかといえば気分が良かった。
あつらえ向きに、快晴という言葉がよく似合う空。
降り注ぐ陽射しは鼻歌を催促するようで、自覚はないがとどのつまり、スクアーロは酔っ払いだった。


<宵越し膝枕>


ヴァリアーの邸にはボンゴレの本部同様、末端構成員までが集い行き交う大部屋がある階の他に、幹部だけが立ち入りを許される階もまた存在した。
幹部それぞれに宛がわれた部屋のある階と、邸の最上階がそうだ。
ザンザスの執務室は最上階、その一番奥に位置していた。
故にザンザス自らが赴かない限り、下部連中がザンザスの姿を見ることはない。
逆に言えば、何をしていようと目に触れるのは幹部連中だけだということだ。
実に都合の良いそのシステムは、日常的にザンザスのサンドバッグと化すスクアーロにとって有難迷惑なものだった。

毛足の長い絨毯が覆う廊を進み、スクアーロは大階段と呼んで差し支えのない、最上階へと続く階段の前まで辿り着いた。
昼間でさえ薄暗い邸だが、夜目のきく暗殺集団にとっては十分な明るさだ。
自室で目を醒ましたとき、すでに日は高く登っていた。
呑み明かした翌日でも任務に支障をきたさない程度には酒に馴らした身体だが、それも精神状態からくるものだ。
任務のない、デスクワークだけの日にわざわざ神経を尖らせておくほどスクアーロも物好きではなかった。
そうでなければほろ酔い気分で浮かされた意識の赴くまま、書類整理に追われるザンザスの執務室を訪れようとは考えつかなかっただろう。
素面ならば絶対に近づかない。


相変わらず重厚な扉を、コン、と軽くノックした。
聞こえなかったのか無視しているのか返答はない。
もう一度叩こうと腕をあげたところで、内側から扉が開いた。
「仮にも暗殺者が、気配垂れ流してんじゃねぇ」
不機嫌そうな赤は少し高い位置からスクアーロを見下ろす。
そこには昨夜呑んだばかりの酒の名残は欠片もない。
「あんたの前で、隠す必要もねぇだろぉ?」
へらへらと笑いながら言えば、そこに酒の臭いを嗅ぎ取ったのだろうか、男の眉間に皺が寄った。
それでも追い返されなかったのは、単に運が良かったのだろうか。
溜息をつきながらスクアーロに背を向けたザンザスは、コーヒー、と捨て吐いて室内へ引き返した。
その後を追う、スクアーロの足取りは軽い。


「……薄い」
「げ、まじかぁ?悪ィ、淹れ直す……」
「いい。座ってろ」

差し出したコーヒーに対する簡潔な感想に、スクアーロは腰を上げかけた。
先ほどまでは執務机の前に座っていただろうザンザスは、今は応接のソファに腰かけている。
数日前にルッスーリアが買い足していったというコーヒーの豆を挽いて淹れてみたはいいが、いつもの感覚が戻っていないのか、どうやら薄かったようだ。
淹れ直そうと提案するのを右手で差し止められて、スクアーロは浮いた腰を再びソファに沈ませる。
いつもなら問答無用で寄越されているはずの書類に視線を走らせれば、見覚えのある綱吉の字で書かれたものだった。
スクアーロに読まれても問題ないが、決裁を任せられる類の書類ではないということなのだろう。
他の書類も同様なようだから、手を貸してやれる案件はない。
目的もなく訪れたせいで、スクアーロは完全に手持無沙汰だった。
自分のためにも淹れたカップの中身を啜り、薄いだろうかと首を傾げるが、味覚が鈍っているのか判断がつかない。
これじゃ毒見も出来ねぇなぁ、と苦く笑って、テーブルへとカップを戻した。
ぐるりと視線を走らせれば、代々受け継がれてきた書物が整然と並ぶ棚が存在感を示している。
系譜に始まり、年鑑や図鑑、事典の類に帝王学から理工学に至るまで、所狭しと並んでいる。
あまり本を読まないスクアーロにとってはそのタイトルでさえ頭を痛ませる代物なのだが、ザンザスはすべて一度は目を通したことがあると言っていた。
シェイクスピアの詩などいったいどんな顔をして読んだのだと訊ねてやりたいが、実行に移す勇気は持てないでいた。
ちらりとザンザスに視線を戻すが、相変わらずの涼しい表情で綱吉の書面に目を走らせている。
時折コーヒーを嚥下する喉元と、その度にわずかに濡れる唇が妙に艶めかしい。
何を馬鹿なと視線を逸らしつつも、ザンザスの隣にいて落ち着かない自分がなんだか悔しかった。
無意識に唇をへの字に曲げ始めたスクアーロには気づいているのかいないのか、コーヒーを運ばせた後は声をかけることもなく、ザンザスはただそばにいることを許している。
それだけでも稀なことなのだが、悲しいかな酔っ払いには伝わらなかった。

ぼすりと脚を襲った衝撃に、ザンザスはぴきりとこめかみのあたりを引き攣らせた。
隣で退屈し始めていたスクアーロに気づいてはいたのだが、よもやこんな暴挙に出るとは思わなかったのだ。
先ほど感じた酒の臭いは、どうやらザンザスの気のせいではなかったらしい。
「何してやがる、てめぇ」
「書類整理、まだあんだろぉ?気にしねぇで続けろぉ」
スクアーロはザンザスの太腿に頭を預けたまま、ソファの上でごそごそと寝心地のいい場所を探している。
床に転がしてやろうかとも思ったのだが、覗く横顔からでさえ窺える拗ねた様子に、ザンザスは二度目の溜息をついた。
年を重ねる度、自分がこの男に甘くなっていくのは自覚していたが、男は男で幼くなっている気がしないでもない。
思えば十五になる前にはすでに自分の代わりに針のむしろで過ごしていたのだから、甘えたくとも甘えられなかったということだろうか。
酒というのはずいぶんと偉大な力をお持ちのようだ。
「……この時間じゃ書類残ってんの分かってて来たんだろうが」
「だから、続けろって言ってんだろぉ」
「それを邪魔してる奴が言ってんじゃねぇよ」
鼻で笑って、ザンザスはスクアーロの髪を指先に絡めとる。
毛先まで梳いては遊ぶのを繰り返しているうちに、スクアーロの機嫌は少しずつ浮上してくるようだ。
まるで猫だなと、言葉にはせずにそう思う。
「ベルの奴も潰れてたが、てめぇも相当呑んだだろう」
酒臭ぇ、とからかえば、うるせぇぞぉ、とごねるような返事だ。
とろりと弛み始めた眦は、今度は心地好さに酔っているらしい。
「重いから寝んじゃねぇぞ」
「うるせえぇ、寝るかよぉ……」
言いながらあくびを噛み殺すのを見逃しはしない。
髪を梳くのをやめて耳の裏をくすぐれば、目に見えて肩が震えるのが分かった。
「くすぐってぇぞぉクソボスがぁ」
「なんだ、感じたんじゃなかったのか?」
「セクハラ野郎ぉ」
「上等だてめぇ」
生意気の域を過ぎた言葉も、猫を相手にしていると思えばそう腹が立つものでもない。
そもそももう少し相手をしてやれば、後は邪魔されることなく仕事に手を付けられるのだ。事を荒立てる必要もない。
全く本当に甘くなった、と少しばかり己を律する気持ちを混ぜながら、ザンザスは肩から力を抜いた。
案外頭を撫でられるのに弱い男は、もう半分近く眠りの淵だ。
「スクアーロ」
「んん゛……?」
名前を呼んでやっているというのに、反応が鈍い。
普段ならこれひとつで耳まで真っ赤にしてザンザスを愉しませるというのに。つまらない。
「とっとと寝ちまえ」
ほんの数分前とは対岸にある言葉を紡ぐ己を矛盾しているとは思ったが、スクアーロに気づいた様子はない。
あと少し。あとほんの少しで、むずがるような返事は穏やかな寝息に変わるはずだ。
いくらヴァリアーの本邸にいるとはいえ、次席がこれでは部下に物を言えたものではない。
まったくスクアーロに都合のいいように、ヴァリアーの規律は作られている。

「……ドカスが」

眠りに落ちた銀糸にもう一度だけ指を絡めて、ザンザスは書類の続きに目を向けた。


… * … * …


「なにこれ、入っていーの?」
「ベル、馬に蹴られたいのかい」
「だめよベルちゃん、こんなの滅多に見られないわっ」
「……………おいムッツリ、うぜーからフリーズしてんなよ」
「…………ッ……ッ……ッ!!!」
「だからうぜーっつの。王子まじだりぃー」
「せっかくだから写真でも撮っておこうか」
「マモちゃん、幾らで売ってくれる?」

愛用のカメラを出しながら、ルッスーリアに三つ指を立てるマーモンがいたとかいないとか。

fin.


08.10.10