恋とは呼べない      11.01.09無配 11.11.12掲載




ブレる視界には、消しそこねた仄かなカンテラの灯りだ。
カチコチと小さな音を立てるねじ巻き式の時計は、まだ日の出前を指している。
はあっと吐いた溜息が白く煙る、冬島の海域。
いつから眠れなくなったのだろう、ぼんやり考えた。


恋とは呼べない


「――……んだァ? 今日はまたずいぶん早くに寝たなァ」

だだっ広いモビー・ディック号の食堂、その厨房に一番近い席だ。
トレードマークであるビタミンカラーのテンガロンがいまは背中の誇りを覆い隠し、その持ち主はすこしも減っていない山盛りのピラフに顔を埋めている。
常であればそのそばには空になった皿が山と積まれているはずなのだが、今日はわずかに二、三皿だ。
酒も入っていないというのに、ずいぶんと謙虚な食事で眠りに就いてしまったらしい。

「めっずらしいなァ、こんなじゃ足りねェだろエース」
「今日は海が時化るかねい」
「ばっかおまえ、縁起でもねェこと言うんじゃねえよ」

今日の外回りうちの隊だぞ、と大仰に眉をしかめたサッチがエースの横、椅子を引いて腰掛ける。
その正面に席を取るのがマルコだ。
朝っぱらから酒を片手に食事をしようと、船長からして酒浸りのこの船に咎める輩などいるはずもない。
ましてや相手が一番隊隊長ともなれば尚更だ。
そんな彼に向かって「朝っぱらから酒臭え」と言ってのけるこの船唯一の強者は、残念ながら夢のなかだ。
つんつん、と癖っ毛の後頭部をつついてやりながら、サッチがコーヒーに手を伸ばす。

「最近よォ、エースがこうやって寝てること増えたよな」

ぐびりと喉を鳴らした後の一言に、豪快に瓶から酒をあおっていたマルコが目を向ける。

「こいつの寝汚ェのはいまに始まったことじゃねえだろい」
「いや、そりゃそうなんだが……うちの隊の奴が、こないだ見張り台から降ってきたって言っててな」
「エースがかい?」

どういうわけだ、と眉を寄せて身を乗り出したマルコにサッチが続ける。

「ああ。上ってて突然眠気がきたのか知らねえが、ちょうど下にアトモスがいたもんで上手いことキャッチしたらしくてな、その場で笑い話になったってんだが……」
「危なっかしい話だねい」
「いやまったく。だが気になったのが、そいつが具合でも悪いんじゃねえかって声かけたら、 寝れねェだけだ ≠チて返したみてえでよ」
「寝れねェ……? エースが?」
「あァ、その後で慌てて 最近寒いからな ≠チて言い繕ったって話だが、こいつは火なのに冷え症ってこともねェだろう?」
「……まあ、聞いたことはねえよい」
「だろ? だからまたこの船に乗ってきたときみてェに、なにか言えねェで抱え込んでんじゃねえかと思ってなァ……、まあ、おまえも気にかけてやれよ」

世話の焼ける弟だぜ、とサッチがぺちり、エースの頭を叩いた。
その衝撃にビクンと弾かれたように身体を跳ねてエースが飛び起きる。
顔中に飯粒をくっつけたままの寝ぼけ眼で顔を拭くものを探すらしいエースに、サッチが濡れたタオルを差し出してやる。準備の良いことだ。

「ん、さんきゅ……って、あれ、サッチ?」

受け取って顔を拭う過程でサッチのリーゼントでも見咎めたのか、エースが不思議そうに小首を傾げた。
眠る前は誰かほかの隊員と食卓を囲んでいたのか、そのツレはどこへ行ったのだと訝しむ様子だ。
精悍な顔つきながらそばかすのせいで幼く見えるその顔が、寝ぼけているといっそうその幼さを増す。
ニィと人をからかうような笑みを浮かべたサッチが、日課とばかりにエースを弄った。

「おう、はよ。ずいぶん眠そうなツラしやがって。一丁前に恋煩いかァ?」
「ッ、だからガキ扱いすん……ッ」

ガハハと笑うサッチに顔を拭ったタオルを投げつけようとしていたエースの言葉が不自然に途切れる。
その理由がたったいま視線の合った自分だろうかと思い至ったマルコは、理由が飲み込めないといった様子で眉を寄せた。

「おい、エー……」
「おっ、おれちょっと部屋戻って寝るな!」
「はっ? おいエース、食いも……」
「むがもごもごむぐ!」
「「………………」」

こんもりと盛られていたピラフをわずかに二口ばかりでかっこんで、どたばたと食堂を出て行ってしまったエースに残された二人は沈黙する。
エースを引き止めようと宙に浮いたままのサッチの片手が虚しい。
しばしエースが去った方向を見ていたサッチが、ギギ、と音でもしそうなぎこちなさでマルコを振り向いた。

「おい、可愛い弟になにしてくれやがったんだてめえマルコさんよお」
「おれが知るかよい」
「どう見たっていまおまえ見て逃げただろうが」
「人聞きの悪ィこと言うんじゃねえよい」
「ただの事実を言ったまでだろ」
「おまえの妄想じゃねえのかい」
「ッ、てんッめ」
「コーヒー。冷めるよい」

しれっとした表情でそう言ってまた酒をあおったマルコに、サッチは言いたいことを飲み込む様子だ。
ぐいっと乱暴な仕草でカップを口に運んだサッチに、マルコはひっそりと溜息を吐く。
エース可愛さに問答をされたところで、マルコにも理由はわからないのだ。答えようがなかった。
ちょっぴり遅めの反抗期か、いや親父にさんざ喧嘩を売ってた時代が反抗期か、だとすればなにか、思春期か。
つらつらとそんなことを考えながら、なんだか胃のなかにずしりと降ってきた重苦しい感情に、マルコはまた酒を流し込んだ。


◆ ◆ ◆


モビー・ディック号は広い。
それこそ誰かが誰かを意識的に避けようものなら、一日や二日顔を合わせないことなど簡単だ。
事の次第を訊ねようとしたサッチもマルコも、結局今日一日エースに逃げ切られてしまったのである。
まあぼちぼち探ってみる、と言ったサッチはすでに自室に引っ込んで久しい。マルコはといえば、なんとなくもやもやとやりきれない感情を持て余して、
急ぎでもない書類を片っ端から片付けていた。
ジジ、と揺れた蝋燭の灯りにはっとして意識を戻せば、とうに草木も眠る丑三つ時だ。
考え事をしながら作業をしているとついこうだと、自嘲に唇を歪める。
ぐっと伸びをして首をこきりと鳴らしつつ、さてどうしたものかとうっかり吐きそうになる溜息を飲み込む。
エースがこの船に乗って、そろそろ半年だ。
隊長として二番隊を預かるようになってまだそうは経たないが、隊員たちにも慕われ、
他の隊の隊長たちからも可愛がられて、隊長業務もよくやってくれている。
大飯食らいと突然の睡眠と、それから書類仕事が大雑把なのと戦闘ともなれば先陣を切って飛び出していく無鉄砲さが玉に瑕……というには
瑕の部分もずいぶんと多いが、これといって素行不良といった面はない。
海賊相手に素行もなにもあったものではないが。
いまだに「最初に餌付けをしたのはおまえだろう」と言われるくらいには昔からマルコはなにかとこのやんちゃな末弟を気にかけていたし、
エースもまた、初めの牙を剥いていた時期さえ除けばマルコのそれを享受していたように思う。
一番隊に預けられていたころは隊長隊長と慕って追いかけてきてくれていたし、たまに街に寄ればふらりと連れ立って食事をしに行くことも多かった。
それがこうも避けられるようになったのはいったいいつからだったろう。思い返しても思い出せない。
なにか知らぬうちに不興を買うようなことでもしてしまったか、あるいは怖がらせるようなことでもしたか……
酒の場で記憶を失くしたことは一度もないから、そういった絡みではないだろう。
不興を買う、にしてはエースの態度からは嫌悪感は感じられないから当て嵌まらない。
脅えているのでも嫌っているのでもない、どう言い表わすかと言われたら「戸惑っている」というのがしっくりくるような状態だ。

「………だめだ」

考えても埒があかない。
今夜は夜空を肴にとびきりの酒でも呑んで眠りに就こうと、マルコは上着を着込んで夜の甲板へと足を向けた。


◆ ◆ ◆


「……ったく冷えるねい……、まあでも、冬島が近ェおかげで星は……ん……?」

白い息を吐き出しながら船尾へと向かう途中である。
ゆらりとすっかり見慣れた炎が揺らめいた気がして、マルコは無意識に歩を速めた。
不寝番以外は寝静まった深夜、夏島の海域であればそれでも甲板で夜じゅう騒いでいる輩もいるのだが、この凍える海ではそんな物好きも皆無だ。
見間違うはずがないと思ったその揺らめきは、やはりぽつんと一人きり、モビーの船尾で暗い海を眺め、小さな焔を海に向かって投げていた。

「………エース」
「ッ、え、あ、マルコ……?」

誰か起きてくるとは、それもまさかよりにもよってマルコが出てくるとは思わなかったのだろう、素直に驚いた様子でエースの黒い瞳が揺れるのがわかった。
また昼間のように逃げられてはたまらないと、マルコのなか、つきりと胸のどこかが警告を寄越す。

「どうしたんだい、こんな夜中に」
「え? あ、あー、おれは……っつかマルコは? マルコこそなんでこんな時間に出てきてんだよ、風邪ひくぜ?」
「おまえが言えたことかい。ったく、コートは着てても下は足出てんじゃねえかよい」
「お、おれは火だし、別に寒かねえよ」
「そうかい。で? なんでこんな時間に起きてるんだい」

きゅっと酒瓶のコルクを抜きながら再度訊ねたマルコに、エースがぐっと声にならない声を呑む。
話を逸らせた、と思ったそばからマルコに話を戻されてしまって、言い逃れをするには相手が悪いと言葉を探すようだ。
横目にちらり、エースの様子を視界に収めながら、マルコはごくりと一口、寝酒には少々度数の高い酒を流し込む。
ふ、と一息吐いた後で、

「……最近、どうも寝不足みてえだって聞いてるんだがな」
「……ッ」
「……またなにか抱えてんじゃねえだろうな」

どうして知っているのだ、という表情で目を見開いたエースに溜息ひとつ、なんのためにおれたちがいると思っているんだと苦く思う。
スペード海賊団の船長として常に気を張っていただろうころとは違う。
鋭くとがって、むやみに触れようものならその相手に牙を立てなければならなかったような、そんなころとはもう違うのだといつになったら理解するのか。
辛いときは辛いと言えばいいし、弱音を吐いたところで笑い飛ばすような輩はいない。
黙って背でも肩でも貸せと言うならいくらだって貸してやる。
それも出来ないほど自分は頼りないのかと、心を許すには値しないのかと、苛立ちさえ覚えてしまうほどだ。

「エース」

酒瓶から口を離し、エースの目を正面から捉えたところで、まるで観念したようにエースが奥歯を噛みしめた。
無理やり吐き出させたかったわけではないし、そんな辛そうな表情をさせたかったわけでもない。
けれどエースのことだ、多少強引に事を進めないと自分のなかに溜め込んで、知らないうちに知らないところで折り合いを付けてしまうのを知っていた。
そうしたエースは自分に引けるぎりぎりの線で境界線を引いてしまって、その事柄やその相手に対して決してそれ以上を踏み込ませない。
それも相手には気付かせないだけの技量も持っているから厄介だ。
自分はそれでは嫌なのだと、マルコのなかで駄々を捏ねる子どもの自分がいる。
その感情がどこから来るのか気付かないままで、まったく海賊というのは、幾つになってもガキのようで仕方ないとマルコは苦笑を噛み殺した。
そのときだ。


「あんたのこと考えてると、いつのまにか朝になってる」


聞こえたエースの凛とした声に、マルコはひゅっと息を呑んだ。
どくん、と大きく音を立てたような気がした自分の鼓動が、何故だか遠い。
夜の冷えて澄んだ空気も、冬島の海域最大の恩恵である満天の星空も、まるでエース以外は褪せてしまったようだと、そんなことさえ。

「最近いつもそうだ」

エースの唇が言葉を紡ぐたび、マルコはどこか胸の奥をぎゅうとわし掴まれる錯覚を覚える。

「……なんであんたのことばっか考えてんのかわかんねえ」

でもおかげで眠れない、そう続けたエースは最後にひとつ、はあ、と大きく溜息を吐いた。
マルコの様子にはまるで頓着しないままで、ぐっと伸びをひとつ、寄りかかっていた船べりから身を離して身体ごとマルコに向き直る。
それから、ニッとまるで悪戯っ子のような表情を浮かべた。

「悪ィな、忘れてくれ」
「エー……」
「なんかすっきりしたから、寝れそうな気がしてきた」

さっぱりとした口調で言うと、ふわ、と大欠伸をして、マルコの横を抜けていく。

「マルコもさ、それ呑んだらさっさと寝ろよ」

あんた明日も早いんだろ、とすれ違いざま、エースの手がぽんとマルコの背を叩いた。
大した力で叩かれたわけでもないというのに、なんだかじんと痺れたようにさえ感じてしまうのは、いったいどういうわけだろう。
もう一度名前を呼ぼうとした、そうして吸い込んだ息は音にはできないまま、マルコはエースの背を見送る。
ふわふわと柔らかそうな癖っ毛が船室へと消えるのも確かに見たというのに、どうにも動けそうにない。

「……なんだ、ってんだよい……」

ぎこちなく動かした唇から漏れ出た声は、寒さのせいではなく情けなく震えていたように思う。
こんなに冷えているというのに耳が熱いような気がするのは、すっかりかじかんでしまったからだろうか。
無意識に左胸を押さえようとして、マルコは手に持っていた酒がそのままだったことに気が付いた。
きついそれをぐいと乱暴に流し込んで、かっと焼けるような感覚に目を閉じる。
喉を焦がし、内腑を焼いていくその熱に似た感情の名を思い出しそうになって蓋をする。
恐れているわけではない。
まだだ、とどこかで声がするのだ。
まだそれに気が付くときではないと。
どくり、どくりと耳にうるさい、いつもよりも速い鼓動は強い酒のせいにして、マルコはずるり、その場にしゃがみこんだ。


fin.


マルコさん、恋の予感。
「I love you.を訳したー」で「君のことを考えるといつのまにか朝になってる」…だったかな、出たお題で
1月9日インテにて無配させて頂いたものでした。
いいマルエーの日記念に再録。