All I Want for Christmas Is You      10.12.25




ここはどこだ。
目を醒まして一番、エースは己の酒癖の悪さを呪った。
二日前に恋人に逃げられ、行き場を失くしたプレゼントを換金して、その金で飲み歩いていたことは覚えている。
せっかくのクリスマス・イヴ、腹の足しにもならない夜景になど興味はないけれど、
こんな夜にまで残業している証のそれらを見下ろしたならさぞかし気分が良いだろう。
そんなやさぐれた気持ちで滅多に訪れることのない、洒落たシティホテルが最上階に備えるバーに足を踏み入れたのが最後の記憶だ。


上から下まで全面ブチ抜きの窓がエースの視界およそ百八十度をぐるりと囲んでいる。
見下ろすのは暗い海と煌々と輝く橋、それからビルとビルとが織りなす光の洪水だ。
おあつらえ向きに観覧車まで見えているのはいったいなんの悪い冗談か。

「……いやいやいや……ねえって、これは、ほんとに、……ねえよ……」

誰に言い訳するでもなく、意味をなさない言葉を羅列するあたりがすでに混乱の境地である。
ただベッドの中で目覚めたのなら気分が悪くなったところを親切な誰かが介抱してくれたのだろうかと楽天的な考えも持てたのだが、
下着ひとつ身にまとっていないとなれば話は別だ。
ついでに言えば隣のベッドは口に出したくないほど乱れていて、情事の名残があからさまだ。
バスルームからはシャワーの音が聞こえていて、せめて綺麗なオネエチャンが相手ならと願う気持ちがあるけれど、
ベッドの下に落ちているのはどう見ても自分のものではない仕立ての良いスーツである。
ごろりと無造作に落ちている時計は女性が身に着けるには重そうで、エースでもそのデザインからブランドが判断できるような代物だ。
なにより先ほどから、あらぬところがずきずきと痛む。
酒で記憶を失くした経験など学生のころから豊富だけれど、こんなに青ざめるようなシチュエーションは初めてだ。
シーツごしの膝を抱え、エースは大きく溜息を吐いた。

そこへ、がちゃりと唐突にバスルームの扉が開かれる。
反射的にびくりと震え、跳ねるように顔を上げたエースの目に飛び込んできたのは、
たったいまバスルームから出てきたばかりの男―――……、そう、紛れもなく男だった。
すくなくとも、エースより二回りは年上だろうか。
腰から下をバスタオルで覆っただけのまったくラフな格好で、鍛えられた上半身を惜し気もなく晒しながらがしがしと乱暴に髪を拭っている。
滴る雫が羨ましくさえ思えてしまう割れた腹筋を伝っていって、その様がなんとも言えずエロティックだ。
男相手にそんな言葉を使う日が来るなど、エースは考えたこともなかったけれど。

「なんだ、若ェのはやっぱり元気だねい。もうアルコール引いたのかい?なにか飲むか?喉は渇いてねェかい」

エースが起きていたことに驚いたのかわずかに眉を跳ねた男は、けれどゆるりとした視線をエースに投げてなにひとつ動じた様子なくそう訊ねた。

「あ、じゃあ、水……」

そんな男につられて応えてしまった己の声が、ひどくかすれている。
発する言葉さえ喉にひっかかるようで、その違和感にエースははっとして声を振り絞った。

「じゃねえよ!あんた誰だ!」

こんなとこ連れてきやがってとかすれてあまり迫力のない声で精一杯きつく詰れば、さぞや心外だという顔つきで男がゆっくりと首を振った。

「まあ、あんだけ呑んでりゃ覚えてねェとは思ってたが……ずいぶんだねい、あんなに情熱的に泣いてねだって縋りついてきてくれたってのに」
「な……ッ、ば、」
「とりあえず水飲めよい」

その声じゃまたそそられちまう。
そんな物騒な台詞を聞かせながら男が差しだしたペットボトルを、半ばひったくるようにしてエースは手に取った。
キャップを弾いて豪快に一飲みすると、ずいぶん喉が渇いていたのだと気付く。
身体が求めるままつい水を流し込んでいれば、渇いて引き攣った喉が許容を超えたのかごふりと噎せた。

「あーあー……そんな急いで飲むからだろい」

げほげほと咳き込むエースの背を撫でてくれながら、のんびりとした口調で呆れてみせる男を苦しい息の下で見上げる。
そんなエースの視線を正面からとらえた男が、顎へと滴った水を指先で拭った。
そのついでにゆるりと唇の輪郭をなぞられて、直後、ぞくんとエースの背を駆けるなにかがある。

「……落ち着いたかい」

呼吸の整ったころにそう訊ねられて、エースは言葉もなくこくりと頷いた。
その様子に満足そうに口角を上げた男の表情に、妙な既視感がある。
初めて見たはずなのに―――……、そう思考を辿って、はっとする。
そう、確かに見たのだ、こんな表情を。
揺さぶられ、ぼやける視界の向こうに。

断片的にでも思い出してしまえば、もう言い逃れはできない。
鈍い痛みを訴える腰も、ずきずきとした疼痛も、腹の奥、どくりと脈打つように残る熱にも。
すべて説明がついてしまうのだ。
記憶を飛ばすよりも、前。
確かにエースは、この男と―――……


「……あ、りえねえ……」

自分にそんな趣味があっただろうかと頭を抱え、再び膝に顔をうずめる。
まさかこれまでに記憶を飛ばしたときにも、こんな風に見知らぬ誰かに身体を許していたのだろうか。
そう考えると背筋が薄ら寒くなるのだけれど、それはありがたくもない男の言葉によって否定された。

「安心しろい、心配しなくてもちゃんとバージンだったよい」
「おっ、男にバージン言うんじゃねえよ!!っつーかそんなこと聞いてねェ!!」
「そんなこの世の終わりみてェなツラしてたら、安心させてやりたくなるのが男心ってモンだろい」
「違ェだろ!なにもなかったって言われた方がよっぽど安心できるっつーの!」
「そりゃあ無理な相談だねい、おまえさんの身体にゃさんざん名残があるからよい」

ちらとエースの身体に向けられた男の視線にバッと自分を見下ろせば、
鎖骨やら胸の真ん中やら臍のあたりやらそれからとても口には出せないようなところにまで、歯型やら鬱血やらが確かに刻まれていて。
そこまで確認してしまっては、いかにエースといえど導き出される答えを否定することなど叶いはしない。
そう、確かにエースは、この男と寝たのだ。

自らのなかでそう結論がつくと、ふつふつと言い知れぬ怒りが湧いてくる。
酒の上での失態などこの歳だ、自己責任と言われてしかるべきだろうが、残念ながらエースはまだそこまで老成していないのである。


「ふっざけんな!!おれのバージン返せ!!」
「食っちまったもんは返しようがねえよい……ああ、おれのバージンでもやろうか?」
「いらねえよ!!」

おっさんのそんなもん貰ってなにが嬉しいんだとエースが牙を剥けば、なにがそんなにおかしいのか男は肩を揺らして笑った。

「あんたナニ、ソッチの人なの」
「馬鹿言ってんじゃねえ、男なんざ興味ねェよい」
「あっっっそう!おれが女に見えたかよ……!」

エースが身体を起こすベッドにどかりと腰掛けてなお笑いの収まらない男に、皮肉のひとつやふたつぶつけてやってしかるべきだろう。
そう思って投げたはずの問いの返事に、苛立ちをあおられるばかりなのはエースがまだ青いからか。
こんな大人になるのなら歳など食わない方が良いのではないかと思えてくる。


「男にゃあ興味ねェんだが……、あんなお誘いされちゃあなァ、据え膳ってのは食わなきゃ男の恥なんだろい」


そう言ってまた肩を揺らす男の話によれば、すでにほろ酔いだったエースは仕事を終えて一人バーで過ごしていた男の隣に座り、
あれこれと愚痴を聞かせていたらしい。
その愚痴がまた二日前に恋人に逃げられた、から始まったかと思えば、社食の量が足りないだの男から酒を引っ手繰ってはこれ美味いだの、
まあ次第に酔っ払いにはありがちな絡み酒になっていったようだ。
男が呑んでいた酒はなかなかの度数で、きっと素面のエースなら手を出さなかっただろう。
度数しかり、ワンショットのお値段しかり。
けれどまともな判断力などすでになく、口当たりの良いそれを次々流し込むうちにすっかり酔っ払ってしまったのだそうだ。
いまにも眠りそうなエースをタクシーにでも放り込んでやろうかと席を立ったのに、カウンターに突っ伏していたエースが男の袖を引いたのだと言う。
酔ってとろりと蕩けた視線で見上げながら、頼りなげに男の袖を引っ張って、独りにすんなよと、そう一言。
言うと同時に目を閉じてしまって、その寝顔があまりに無防備で、男には「据え膳」に見えてしまったらしい。
そのまま部屋に連れ込んで、夢とうつつとの間をゆらゆらと行き来するエースを美味しく頂いてしまったのだと聞かされては、
エースはもはや脱力するほかない。



「まあ、おまえさんが覚えてなくてもおれが覚えてるから安心していいよい」
「だからその論点がズレてんだっつの……!」

ちっくしょう……、と唸りながらぐりぐりと眉間を揉みほぐすエースに、くすりと男の口角が上がる。


「ッえ、……!」

なにが起きた。
そう思うより先にどさりと鈍い音とともに背にはシーツの感触、淡い照明を遮られた視界には、意地の悪そうな男の表情と、その後ろに天井である。
押し倒されたのだと知って慌てるころには時すでに遅く、暴れようにもポイントで押さえられてしまって敵わない。
だらだらと冷や汗をかきながら見上げる先に、余裕たっぷりで唇を舐める男の姿だ。

「あっ、あんたなにやって……!」
「安心できねェってんなら、まあ、実地を持ってもっぺん教えてやろうかと思ってねい」
「なっ、なっ……!」
「バージンなんて大切なもん貰っちまったんだ、ちゃんと大事にしてやるからよい」

大人しくしてりゃきっと気持ちいいよい、なんて、そんな物騒な脅し文句は聖夜には似合わないはずなのだ。
それがこの男には妙に似合うのは、いったいどういうわけだろう。
唯一攻撃のできる唇も、まあ塞がれるまでそう時間はないのであって。
あ、そういや、名前も知らねェ。
そんなことに気が付くのは夜もすっかり明けてからなのだと、今のエースが知る由もなく。

窓の外にはちらちらと、白い雪が舞い始めている。
きっと明日の朝には薄っすらと積もって、街行く人の目を楽しませるのだろう。
キャンドルライトにイルミネーション、ロマンティックな恋人たちは、そんなものに胸躍らせてきっと愛を深めあうのだ。
そんな恋人たちが夢見るようなホテルの一室で、滅多に見ない悪夢のような体験をするはめになろうとは。

先は長いが、人生というのはわからない。
まったく、とんだクリスマスである。

fin.


Happy Merry Xmas!
title:Mariah Carey