青空エスケイプ      10.07.12




餓えている。
それくらいの自覚はエースにもあった。
書類の山を前に今回こそは逃げだすことも叶わず、自らの居住空間である隊長室に限りなく監禁に近い軟禁をされて四日目の昼。
使い慣れた羽ペンにインクを付けたまま転がして遊び始めるくらいには、いい加減エースは限界だった。
きっとそろそろ昼食が運ばれてくるだろう。
エースの食べる量は到底この部屋に収まるような量ではないのだが、そこは心配ご無用、
隊員たちが食堂から出来たての料理を冷めないうちに運んでくれる。
普段が普段、率先して外を飛び回っているようなエースに、自業自得とはいえ不自由をさせているのだからと、
年若い隊長に甘過ぎるほど甘い隊員たちはまるで新妻のような甲斐甲斐しさだ。
呆れた顔をするのはエースと同格の隊長連中くらいのもので、白ひげは「馬鹿息子が馬鹿息子を構ってやがる」と上機嫌に笑っている。
隊長連中のなかにも一部、サッチやイゾウやビスタあたりはげらげらと笑い飛ばしているのだが。

ちらり、エースは窓の向こうへ視線を投げた。
外は良い天気だ。
こんな日はカモメにエサをやって、意味もなくニュース・クーを呼びとめてはルフィの手配書をねだるのに最適な日なのだが。
机の上の書類は憎らしいかな、先ほどからわずか1cmほどしか減っていない。
おおよそで、あと20cm近いこの書類をいったいどうやって捌こうか。
このところ白ひげの縄張りである島々への襲撃が続いていたせいで、被害額やら損失の補填やらのどうこうで書類の量が鰻登りなのだ。
襲撃があるたびに出撃しては鬱憤晴らしをしていたエースだが、後処理の書類のことまでは残念ながら念頭になかったのである。
自分が関わったヤマは自分で片付けろ、と言い放ったのは他でもない、エースが餓えているその相手であった。


この四日、一度たりとて彼の姿を目にしてはいない。
エースでさえこうして缶詰めになっているのだから、一番隊の長ともなれば軽くエースの倍をいく。
マルコはどこまで仕事を片付けただろう。
エースよりずっと処理能力のあるマルコだけれど、それでもこの倍の量の書類といったらまだまだかかるんじゃないだろうか。
この分ではもうしばらくは会えなそうだ。
はあ、と大きく溜息をついた。

机に頬をつけ、だらりとうつ伏せていた身体を起こす。
気合いを入れ直すためにぐっと背伸びをして、最後にもう一度だけ、名残惜しそうにエースは窓の外を見た。
それがいけなかった。


丸い、小さな窓の向こう。
嵌め込みの金具には船大工の遊び心かモビーを模した鯨がお洒落に彫り込まれていて、
いつもならエースをほんわかと癒してくれるのだけれど、今回ばかりはそうはいかない。
だって見つけてしまったのだ。
ワイワイと騒がしく人の行き交う甲板、その遠く、向こう。
見慣れた金髪と紫の上着。あれは間違いなくマルコである。
ほんの一瞬、恐らくは白ひげのところへ報告に行くのだろう、視界の端を横切っただけの姿だったが、まさかエースがマルコを見間違えるはずもない。
がたりと椅子を蹴倒してエースは立ち上がった。
姿を見てしまっては、もう限界である。
床に転がった羽ペンが恨めしげにこちらを見上げるのを、エースは綺麗にシカトした。


タイミング良く、隊長室のドアがコンコンと軽快に叩かれた。
エースの返事を待たずにそのドアが開かれるのは、食糧が持ち込まれる合図である。

「エース隊長、ごはんっすよー!」

満面の笑みでもって馬鹿でかい海王類の肉を掲げた部下に、エースは心の中で詫びる。
ああ、惜しい。あれはエースの好きな海王類の尻尾の肉だ。
塩コショウでシンプルに、けれどしっかりと下味を付けたそれにコック長の絶品ソースがかかったその料理は
エースでなくとも垂涎の一品なのだけれど、いまは腹以上に餓えている部分があるのだ。心の奥底に。

「隊長?」

立ち上がったまま微動だにしなかったエースを訝しんで小首を傾げた部下の、真横。
開かれたドアと男の身体のわずかな隙間を、エースは炎になってすり抜けた。

「うあっち!!って、隊長、どこ行くんですか!?」

肉いらないんですかー!と叫ぶ声を背に、エースはひたすらに廊下を駆け抜けた。
途中、追加の料理を運んでくる自隊の面々に出くわして叫ばれる。

「エースが逃げたぞー!!!」

その声に、方々が殺気立つ気配を感じてエースは神経をとがらせた。
この四日エースが缶詰め状態だったのを知っているのは、なにも二番隊の連中だけではない。
その理由とエースの処理能力とを鑑みれば、まだ書類が終わっていないのは自明の理である。
取り押さえようとそこらじゅうから手の空いたクルーが飛び出してきて、エースはぼっと炎に変わった。
怯んだところをすり抜け、後から追ってくる部下たちと、行く手を阻もうとする他隊の連中を乗り越え、海楼石入りの手錠を危うく避けて、エースは甲板を目指す。
良くも悪くも戦い慣れた白ひげ海賊団、その本船のクルーたちである。
いかにエースといえど簡単には切り抜けられない連中であるが、外からの侵入者には慣れていても内からの逃亡者相手は勝手が違う。
それも可愛がっている末っ子隊長、逃げ出した理由がわかってしまっては親心が先に立って、つい遠慮をしてしまう。
結果的には誰一人として止められず、エースを甲板まで追いかけるに至るのだった。



ところ変わって、甲板である。

「なんだ、騒がしいじゃねェか……」

怪訝そうに顎を上げ、片眉を跳ねた白ひげ相手に、報告を終えたばかりのマルコも同様に視線の先へと振り向いた。
ざわざわと騒がしいその中に、敬語で叫ぶ声だの誰かしらの名前を呼ぶ声だのが聞き取れて、マルコは眉を寄せる。

「……エース?」
「グラララ、またなにか仕出かしやがったのか、あの馬鹿息子は」

いつでも騒ぎの中心にいるなと機嫌が良さそうに笑った白ひげに反し、マルコは苦々しげにいっそう眉を引き寄せた。
このところは大人しく書類仕事をしていたと思ったら、あの男は。
まあ四日、ずいぶんもった方かと思えば頭を撫でてやりたくもなるのだけれど。
いかんせん、それだけでは済まなそうで、マルコは自分に向けて舌を打つのだ。
鉄壁のポーカーフェイスと称されるマルコであっても、白ひげにとっては実にわかりやすい息子の一人である。
彼の不機嫌の理由を正しく悟って、白ひげは楽しそうに笑った。

その笑い声が消えたか消えないか、そんなタイミングでエースは甲板に姿を見せた。
一直線にマルコに向かってくるその姿に、緩みそうになる頬と新たな皺を刻みそうになる眉間とがマルコのなかで盛大な大喧嘩だ。
エースの後ろには大勢の家族たちが連なっていて、天下の白ひげ海賊団がなにを総出で鬼ごっこに興じているのだと、
一番隊の隊長としては雷のひとつでも落としてやりたいが。
同じく甲板に姿を見せていた他の隊長連中まで楽しそうにそれらを眺めているとあっては、ここで止める方が野暮というものだ。
いつになく必死な顔で駆けてくる、その身体に不規則に炎をまとったエースを受け止めるべく、マルコは両手を広げてやった。



どしーん!と、これが漫画ならきっとそんな効果音がついている。
なかなかの勢いで腕の中に飛び込んで、もとい全身で抱きついてきたエースを受け止めたマルコはひとつ溜息をついた。

重い。

ぎゅうぎゅうとマルコにしがみつくエースはそれこそ両手両足を使ってマルコの身体にしがみついているので、マルコが支えてやる必要もないほどだ。
しかしながら成人男性一人の重みをそんな風に預けられては、まさか耐えられないとは言わないが溜息くらいはつきたくなるというものだ。
引っぺがしてくれそうな家族たちは、エースがマルコに抱きついた瞬間に追うのをやめて急ブレーキ、回れ右の揃いぶりである。
どうやら他にも多くいる、ギャラリーの一人に加わることにしたらしい。
顔は覚えたからなとその背にうらみがましい視線を送りつつ、マルコはエースに視線を戻した。

「おいエース。どうした」

呆れたマルコの声がかかるのに、エースはぎゅうと抱きついて首筋に顔を埋めたままなにも言わない。
ただ、はあ、と安心したような深い溜息が聞こえてくる。
その無意識の吐息の熱さに、まずいな、とマルコのなかで警鐘が鳴った。
ただでさえの襲撃続き、ゆっくりと過ごす時間などとれなかったうえに、その後に及んでの書類仕事での缶詰めだ。
もういったい幾日、この身体に触れていなかっただろう。
いい歳をしてなにを今更、とは我ながらに思うのだが、こうして自分よりも高いエースの体温とやわらかな髪の感触と、
ふわりと香る匂いを直に感じてしまっては、触れたいという欲求を抑える方が難しい。

「エース。苦しいよい」

そう言ってぽんぽんと背を叩いて促すのだが、エースは一向に聞き入れない。
ぎゅうぎゅうとマルコを抱きしめたままイヤイヤするようにぐりぐりと肩口に頭を擦り付ける。
だからそれがまずいのだと、マルコはそう言いたいのだが。

「エース。わかった、わかったから、とりあえず離せよい」

ぺし、と後頭部を軽く叩いてやってもエースは離れなかった。
それどころか、マルコの首筋ですうと思いきり息を吸い込んで、「マルコの匂いだ……」とのたまったのだ。
これにはさすがに、マルコもマイッた。
……耐えてたのはおまえだけじゃねェんだ、エース。

「……この馬鹿が。いい加減聞き分けろってんだよい」

いやだと抵抗するエースを無理やり引っぺがして、マルコに巻きついていたエースの両足を甲板に付けて立たせる。
エースの後ろにはたくさんの家族がニヤニヤ笑いでこちらを見ているのが目に入って、マルコは胸のうちで舌打った。
不満そうに唇をとがらせたエースは、けれどこちらを睨むその視線はご主人様の帰りを待つ拗ねた猫のようなそれである。
まったく、この馬鹿野郎が。
この後に及んで煽ってどうしてくれる気だとマルコは口のなかで吐き棄てて、エースの顎を強引に掴んだ。

「マ、」

そうしてマルコの名前を象ろうとした唇に、マルコは問答無用で口づけた。
これにはエースが面食らった。
周りにいたギャラリーも同じようで、エースを中心にどよっとざわめきが広がっていく。
ピュウ、と冷やかしの口笛をよこしたのは、振り返るまでもない、サッチだ。
後で焦がす、と心に決めて、マルコは久しぶりに触れるエースの唇を貪った。

「んっ、んん……!」

確かに抱きついたのは自分だけれど、衆人環視のもとで堂々口づけられたエースはたまったものではない。
どうにかマルコを引きはがそうと必死で手をついてみるのだが、完全に食らう気満々のマルコに敵うはずもない。
抵抗空しく、エースの好きなところを知り尽くしたマルコの舌に翻弄された。
腰を抱かれ、髪に手を差し入れられ、親指で耳の裏をくすぐられると、エースの身体からは力が抜けてしまう。
エースの唇を舐め、舌の裏をくすぐり、口蓋を強くなぶってマルコの舌が好き勝手荒していく。

「ッん、ふ……」

鼻を抜けていくくぐもった声は甘く、ぞくぞくと背を駆け下りていく痺れは腰に疼きをもたらした。
ここがどこであったか、忘れそうになってしまう。
舌の根が痛いほど吸われた後に、甘やかす彼の舌が憎らしい。
じんじんと熱いエースの舌先をマルコの形の良い歯が甘噛んで、最後に下唇を軽く食み、ついばむように口づけて離れる。
はあ、と震える吐息を漏らして、エースは薄く涙の膜が張った目を開けた。
間近に、マルコの薄い青色をとらえてどくりと鼓動が跳ね上がる。
エースはすっかり蕩かされてしまったというのに、余裕そうにくすりと細められたマルコの瞳に、
やっとのことで続きをねだりそうになる自分を抑え込んだエースだ。

ゆっくりとマルコの手がエースの身体を離れ、エースはそのままへなへなとしゃがみ込んだ。
ギャラリーはすっかりアテられたのか、奇妙に静まり返っている。
その静けさは正に、嵐の前のなんとやらだ。
へたり込んだまま視線を上げると、マルコの後ろにニヤニヤと意地が悪そうに笑う白ひげの姿が見えて、エースは途端に顔を真っ赤に染め上げた。
炎を噴きそうなほど見事に染まった頬で口元を覆うエースににやり笑ったマルコは、

「てめェだけが餓えてると思ってんじゃねェぞい」

夜になったら部屋に行くから、それまで大人しく仕事しとけ。


それはもう、エースやその他ギャラリーだけでなく、白ひげを前にした堂々の宣言。
男前ここに極まれり、さすがは一番隊隊長である。
言い捨ててひらひらと手を振る後ろ姿には、照れ隠し代わりのエースの罵声と、愛しい家族たちの割れんばかりの歓声が突き刺さる。
余裕綽々、顔色ひとつ変えずに口角を上げて甲板を突っ切っていくマルコの背を、
横を通り過ぎられた白ひげその人の、豪快な笑い声が追った。


fin.



「おーおー見せつけてくれやがって」
「ふふ、エースは気付いてないんだろうな、マルコのが限界だったこと」
「誰かエースに知らせてやるか?」
「いいな、その後マルコから逃げ切れるかどうかで賭けでもしようか。一口一万ベリーからな」
「おいおい、誰が犠牲になるんだよ」
「そりゃあおまえさんに決まってるだろ、サッチ」
「ってめ、ふざけんなイゾウ!」
「あっはっは!」
「おいてめェら、聞こえてんだよい」

命がけの追いかけっこまで、あと三秒。