君が笑えば死ねたのに     08.08.29






死ぬことははじめから怖くはなかった。
まだ幼い頃からそばにあって、それから絶えず自分の外に内にあったもの。
きっと世界に棄てられたなら自分も両手を広げて迎えるのだ。
それが死だと思っていた。
少なくとも、あの男に出逢うまでは。


傲慢、の名は男がくれた最初のものだった。
姓も持たず名も持たず、ただ血生臭い世界を好んで泳ぐように生きるから、鮫と呼ばれただけだった。
何も持たず、何も望まないのは世界を見下しているからだ。
だから傲慢なのだと男は言った。
誓いも誇りもこの手にはなかった。
与えてくれたのはあの男だ。
与えられると同時に、それを捧げた。
男はくだらないと笑ったが、自分が思うままにしただけだった。それで良かった。
いま思えば、或いはそれさえも傲慢の証だったかもしれない。


傲慢が犯した罪は重かった。
絶対の支配者であると思っていた男は突然奪われた。
後には何も残されず、その生死さえわからなかった。
誓いゆえに死ぬことも出来ず狂うことも出来ず、待ち続けた時間はただ長かった。
男が再び現れたとき、自分だけが8年も先を歩いていたことに男は激昂した。
暴力も罵声も甘んじて受けた。
罪には確かな罰があってしかるべきだ。
男の気が済むまで殴られた後、男が流した一筋の弱さがやけに痛かった。
以来すべてを閉ざした男には、情の欠片も残らなかった。


故郷を離れ、遠い東の島国へ出向くときにもただ男のそばにいた。
あの日破れたはずの誓いと男の野望を果たすためには、どんな犠牲も惜しくはない。
傲慢の主は傲慢でなければならない。
でなければ自分はとうの昔に男の生を屠っている。
強いか、弱いか。
喰うか、喰われるか。
自分の知る世界は二者択一だった。
むろん、男は同じ世界にあって常に勝者で在り続けた。


男は、自分の世界だった。
きっとこの男に必要とされなくなったなら、自ら刃を呑むのだろう。
多くの命を斬り裂いたその剣で、己の命もまた斬り裂くだろう。
それがいつかはわからなかったが、ただ漠然と感じていた。


そんな予感があったからだろうか。
初めて喫した敗北の前に、命を惜しくは感じなかった。
男に弱者は必要ない。
男のそばに在るには、常に強者でなくてはならない。
敗けた自分を、男は笑って棄てるだろう。
それで構わなかった。

薄れる意識のなか、肺に残った空気を吐き出しながら、不愉快な唸り声と荒れた水音の間に聞いたのは、男の声だ。
わずかに届いただけのそれに、まだここでは死ねないと思った。

あのとき確かに覚悟したはずの死にあらがったのは、高らかに笑ったあの声が。


(まるで泣いてる、みたいで)

fin.



08.08.29
title:たかい