硝子の砕ける派手な音がした。
次いで、悲鳴と怒号。
無法地帯というのはこれだから困る。
たまには静かに呑みたい日もあるというのに。
のんびりと酒瓶を口に運びながら振り向けば、可哀想な男が店の窓と熱烈なキスをかましたところだった。
背中を後押ししてやったらしい男は、悪そうな笑みを浮かべて右手をひらひらと振っている。
テーブルの上には厭味なほど長い脚を乗せて、左手にはウォッカのボトルを握ったままだ。
その爪はどす黒い赤に塗られていて、男自身、毒々しい赤色に彩られている。
人の目を惹く、鮮烈な色だ。
男が誰か認識したローの瞳が、わずかに瞠られた。
ユースタス・"キャプテン"キッド。
南の海からその悪名を轟かせた海賊である。
上陸しているのは知っていたが、まさかこんなところで出くわすとは思ってもみなかった。
海賊というのは安っぽい酒場が好きなものだと相場が決まっているのだろうか。
高い酒場で裸に近いオネエチャンでも侍らせている方がずっといやらしくて似合うのに。
そう思うと少しだけ残念で、ローは唇を歪めた。
キッドが連れているのは一人だけだ。
その男も殺戮武人として名を知られた戦闘員だったが、二人だけならどうにかできるとでも思ったのだろうか。
だとすればずいぶん可哀想な出来の頭である。
あの二人が揃っているなら、自分でもあまり喧嘩を仕掛けたいとは思わないものだが。
命知らずというのはどこにでもいるらしい。
ロー自身、この店に歩いてくるまで何組かの賞金稼ぎに狙われた。
自分を討ち取って名を上げたいらしい同業者にも、何度か。
このシャボンディ諸島には現在、目的を同じくする賞金首どもが大勢集結している。
中でも億を数える自分は格好の獲物なのだろう。この首をくれてやる気はないが。
この程度の騒ぎにはすっかり慣れているのか、店主に取り乱す様子はない。
ただ窓に突っ込んだ男は半身を外に乗り出したままぴくりとも動かないし、そいつの席にいた女は店の外に逃げ出してしまった。
奴隷じゃなかったのかと訊ねれば、いつのまにかこの店を餌場にしていた娼婦だと言った。それもよく聞く話である。
納得して頷くと、今度はテーブルのひっくり返る音だ。
再びちらりと視線を戻せば、どうやら哀れな男の仲間が勇敢と無謀とを取り違えたらしい。
キッドの向かいで酒を口にするでもなくただ過ごしていたキラーに、暇潰しよろしく斬り伏せられたようだ。
袈裟がけにすっぱりと斬られた傷には無駄ひとつなくて、ローはわずかな間それに見惚れた。
「次は?またボトルにするかい?」
まだ酔ってはいないだろうと笑う店主の声にはたと我に返り、咥えていたボトルに目を落とす。
ああ、ラム酒がもう空だ。
いったい何本目だったか。
ベポとペンギンが揃ってコーティング職人のところへ行ったのをいいことに、キャスケットを撒いてここへ来たのが昼の三時過ぎだ。
空の色を見るに、そろそろ六時にはなるだろうか。
あの二人に脱走がばれるのは面倒だし、キャスケットを泣かせるのも、まあ愉しいが忍びない。
ぼちぼち船へ戻ってやろうかと、紙幣を出しながら腰を浮かせたところで、
「船長!!いた!見つけた!」
半泣きの情けない声が聞こえた。
思った以上にベポとペンギンの戻りが早かったらしい。
でなければキャスケット一人に自分の居場所を見つけられるはずがない。
それはローのプライドが許さない。
どたどたと板張りの床を踏みつけながら酔い潰れた店の客たちを掻き分けて向かってくる男に溜息が漏れた。
悪目立ちも良いところだ。
「もー!勝手にいなくなって!おれ超怒られたんスからねペンギンに!!」
カウンターに向かっていたローの右隣に陣取って、マスターお茶!となかなかの無茶振りをするのはローの船で一番陽気な男である。
ついでに、一番空気を読まない。
いま彼の目に映っているのはローの姿だけであって、入口付近にいたあの赤と金の派手な二人組であるとか、店の惨状であるとかは認識されていないのだ。
当然、赤い瞳がこちらを向いたことにも気づいてはいなかった。
ゆらりと、その赤い色が動くのをローは視界に捉えた。
キラーがなにか制止の声をかけたようだったが、男に聞く気はないらしい。
立ち上がったキッドは、真っ直ぐにローの座る席を目指していた。
キッドのブーツが立てる硬質な音は耳に心地良かった。
狭い店内では、あの長いコンパスで五歩も歩けばすぐに傍まで来れてしまう。
「よォ」
ローの左隣にどっかりと腰かけ、赤く塗られた唇が歪んだ笑みを形取った。
初めて耳にするテノールは、なんとも自信に満ちてふてぶてしい。しかし妙にそそる声質だ。
ようやくキッドの存在に気がついたのか、キャスケットがひっと引き攣った声を上げてフリーズした。
ちらりと視線を走らせたが、キラーに動く様子はなく、じっと視線を注ぐばかりである。
ただし、いつでも斬りかかれるように身体の重心が傾けられていた。おそらく既に間合いの中だ。
もちろん能力者であるローの間合いの中でもあったが、単純動作だけで物を言うならきっとキラーの方が速い。
理解したうえで、ローは慌てるでもなく薄い笑みを浮かべた。
するとまるで奇妙なものでも見たように、マスクの下のキラーの視線がわずかに逸らされたのが分かった。
そんなローの横で、最後の一口だったのかウォッカをぐびりと一呑み、深く息をついたキッドが言葉を継いだ。
液体を嚥下する喉の動きひとつとっても、勘に障るほど様になる男だ。
「……トラファルガー・ロー……北の、二億の首だったか」
「あァ。ご存知とは光栄だ。……手配書で見るよりいい男だな、ユースタス屋。……おれの好みだ」
からかい半分、本音半分。
ぴくりと寄せられた眉間と浮く青筋に、知らず笑みが浮かぶ。
いかつい見た目に反して、案外素直で可愛い男らしい。
参ったな。
こういう男はからかい甲斐があって困る。
元来享楽主義のローだ。愉しいこと、気持ち良いことには人一倍貪欲で、その自覚くらいは持っている。
人をからかうこともまた、ローが好む遊びのひとつだった。
船長、とキャスケットがローの袖を引いている。キッドの瞳に走った殺気で、どうやら金縛りが解けたらしい。
ここで騒ぎでも起こそうものなら、船に帰ったときの小言がひとつ増えるのだ。
ローの暴走を止められなかったキャスケットももちろん、その餌食である。
ローの身を案じてか保身を図ってか知らないが、どちらにしろそんな弱い意思表示でローが止められるはずもない。
キッドがローの襟元を掴んで引き寄せても、ローの笑みは崩れなかった。
「そんなに近寄ってくれるなよ。どきどきするだろ」
「てめェは……、ハハ、いい趣味してやがるじゃねェか」
「おまえほどじゃァない。いいのか?今晩の相手捕まえなくて」
「てめェと違って餓えてねェんでな」
「フフ、おれにも好みってのがある。誰彼誘うわけじゃないんだ、光栄に思ってほしいなユースタス屋」
「死にてェか」
「あァ、殺すんならベッドの上だけにしてくれ」
まだやりたいことがあるもんで。
にっこりと微笑みを添えてやると、ビキビキと音を立てんばかりの勢いでキッドのこめかみに青筋が増えた。
反して、ローはいよいよ愉快になる。
他所の船長でさえなければ、自分のクルーとして連れ帰りたいとまで思った。
赤いコートを剥いで揃いの白いつなぎを着せてやったら。
想像するだけで興奮が尽きないというものだ。
キラーが腰を浮かせたのを、制したのはローである。
やり合うつもりはない。唇だけで伝えて己に隙をつくる。
殺したいならそうしてくれと態度で示すのに、どうやらキラーは事の次第を見守ってくれるようだ。
マスクの下、勝手にしてくれと言わんばかりの呆れた溜息が漏れた気がするが、気付かなかったことにしておこう。いい仲間だ。
少しペンギンに似ている気がする。どこがと言われれば猪突猛進型の船長を抱えて、一身に苦労を引き受けているあたりなのだが。
「船長!!お願いだから、帰りましょうよ、ね!」
キャスケットは既に泣き声だ。
よほど仕置きを受けるのが嫌らしい。無理からぬことだった。
ローに触れていない方のキッドの腕がわずかに光を帯びて、店の中にある鉄製の道具がかたかたと音を立て始める。
何の能力者か知らないが、披露してくれるつもりらしい。
出来れば傷つけずに、このまま持ち帰りたいというのがローの本音である。
今晩の相手は半ばキッドに決めかけていたところだ。お愉しみの前に野暮は必要ない。
ひとまずは対抗するためにローもまた能力を発動させかけたところで、入口がまた騒がしくなった。
「なんだ……?」
「……ああ、なんだ、早かったなおまえら」
訝しがるキッドを他所に、ローはそこに立つ二人へ視線を移した。
他でもない右腕であるペンギンと、愛してやまないベポが入口を仁王立ちで塞いでいる。
「もー!キャプテン!!お酒は一日三本までって約束したでしょ!!一緒に寝てあげないからね!」
ぷりぷりと頬を膨らませて肩を怒らせるベポは、犯罪的に可愛らしい。
そのほっぺたに噛みついてやりたいほどだ。
突如として恍惚の表情を浮かべたローに、キッドはぎょっとして後ずさった。
「フフ、フ、あんまりつれないこと言うなベポ。おまえがいなかったら淋しくて眠れるわけないだろ」
「知らないよ!キャプテンなんかそいつ抱っこして寝ればいいでしょ!」
「なに言ってんだベポ、ユースタス屋が相手じゃおれが抱っこされる方―――……」
「しねェよ!!」
「―――……残念。」
即座の否定にすら愉しそうに笑ってみせる男は、キッドの理解の範疇を超えていた。
これ以上関わるのはだめだ。
この男は、いけない。
本能に近かっただろうか。わからない。
ただ胸に、耳に、うるさいほど警鐘が鳴っていた。
その警鐘の意味を、たぶん知ってはいけない。
ぎりぎりと奥歯を噛み砕かんばかりに歯噛みして、キッドは低く、キラー、と声をかける。
心得たように席を立ったキラーがカウンターに置いたのは、酒代にしては多すぎる紙幣の束だ。
窓の修理代だろうか。それとも騒ぎへの詫びのつもりか。
なんにしろ、窓の向こう、いまだに目を覚まさない男への見舞金であるはずはない。
ごとりと、重い椅子の動く音である。
キッドの赤いコートが揺れて、次いでゆっくりとその踵が返された。
けれどそこに、余裕は見当たらない。
ローはまたひっそりと口角を上げた。
「もう帰るのか、ユースタス屋」
「うるせェよ変態野郎」
興が醒めた、と一言、あとはローに目もくれない。
つれない態度はしかし、ローとしては願ったりだ。
こういう男を落とすのもまた一興。
獲物を定めたローがぺろりと舌なめずったのを見たのは、幸か不幸かキャスケット一人だった。
むろん、小心な男は見なかったふりをするのである。
「なァ、ユースタス屋」
キラーと肩を並べて歩き出す直前だったキッドに、ローは懲りずに声をかけた。返事がないのは承知のうえだ。
ただ先ほどは綺麗に無視をしてくれた赤い瞳が、横目にローの藍色の瞳を見返している。
その色に混じる怒気にも、ローは艶やかに笑んでみせた。
わずかにキッドの眼が眇められた気がしたのは、なにかローに都合の良い見方だったろうか。
「今度、おまえの連れもおれの連れも抜きで、二人きりで愉しいことしようぜ」
――――――待ってる。
そう言い足したのと同時、キッドは手にしていた空の瓶をカウンターに叩きつけた。
耳障りな音とともに破片が飛び散り、そのうちのひとつがローの頬を浅く傷つける。
「船長!!」
つ、と流れた赤い筋にキャスケットが肩を怒らせたが、ローに制されてそれ以上はなにも言わなかった。
ただ唇を強く噛んで、キッドを睨みつけている。
一方のキッドはといえば、これ以上ないほど綺麗な青筋を額に、生きた宝石のような赤い瞳を光らせて、射抜くような視線をローにくれていた。
「ビッチ野郎。次は生かしちゃおかねェぞ、てめェ」
侮蔑の形に唇を歪めて、まったく笑いだしたくなるほどの悪態をついてくれる。
小刻みに震えるローの肩は、既にキッドの視界にもキラーの視界にも映ってはいなかった。
今度こそ背を向けて歩き出すキッドとキラーと入れ違うように、ベポとペンギンがカウンターに向かって歩いてくる。
一触即発の空気すら漂っていたのだが、すれ違うそのときも静かなものだった。
遠ざかる赤に名残惜しそうな視線を送り、代わりに近づいてくる白いつなぎ姿を視界にとらえたローだ。
深く被った帽子のつばに隠された目元は見えないが、固く引き結ばれた唇がペンギンの不機嫌を告げている。
ぴたりとあと一歩のところまでローに近づいたペンギンが、その指先を伸ばしていささか乱暴に、頬を流れた血を無言で拭ってくれた。
「フフ、怒ってるのか?」
悪びれもなく訊ねるローに、ペンギンは溜息をひとつ。
いくら言い聞かせてみたところで聞く男でないのは、長い付き合いのなかで嫌というほど思い知らされた。
良くも悪くも、ローは我が道を往く奔放な男なのである。
「あんたの火遊びは今に始まったことじゃないが……少しは自重してくれ、ロー」
肩をすくめて呆れた態度を崩さないペンギンに、ローはとうとう声を上げて笑った。
腹を抱えてカウンターを叩き、目には涙さえ浮かべてみせる、稀に見る爆笑である。
引き攣る呼吸を必死でなだめながらローが言葉を継ごうとするのに、キャスケットは盛大な呆れ顔で溜息を、ペンギンは諦めた様子で首を横に振った。
この男が次に口にする言葉は決まっている。
おねだりという名の命令だ。
それに逆らえるのは、この場にただ一人きり。
にこりとも笑わずに眉間に皺を寄せたまま、ローの笑いが収まるのを待っている、人ではないその影である。
「なァ、もう少し呑んでいかねェか。愉しい気分なんだ」
これと同じの、もう三本。
店主に向けてラム酒の空瓶を指したローに、ベポの雷が落ちるのは、もうまもなくのことだった。
◆ ◆ ◆
すっかりと日が暮れた帰路である。
薄汚い殺気の残り香がそこかしこに感じられる、あまり気分が良いとは言えない夜道だ。
ぽこぽこと地面から湧きだしては昇っていくシャボン玉も、いまはなんだか片っ端から割ってやりたい気分である。
ベタつくうえに割りにくいのでやらないが。
船に戻って呑み直そうか。
少しは気が紛れるかもしれないと自分に言い聞かせつつ、船の酒蔵の在庫を思い返すキッドである。
そろそろ買い足さないと、淋しいことになっているかもしれない。故郷の酒が懐かしい。
シャボンディ諸島を出た後は、どこかで南の酒を手に入れるのも良いだろう。
ひとつ、楽しみが出来た。
地を這っていた機嫌が上向いてきたキッドを他所に、店からそう遠くない場所で、ふとキラーが立ち止まった。
三歩は先を歩いていたキッドだったが、足音が止まったのを訝しんで振り返り、同じように店を振り返るキラーに声をかける。
店にはまだ、賑やかに灯りがともっている。
「どうしたキラー。帰ろうぜ」
「ああ……、いや。しばらくはおまえを一人にできないと思ってな」
ひどく真面目な声色である。
しかし突拍子もないキラーの言葉に、キッドはぱちぱちと瞬きをした。
長い付き合いだが、キラーが冗談を言うのはもしかして初めてではないだろうか。
一人にできない?
キラーはそんなに心配症だったろうか。違う。
いくら無法地帯と呼ばれる場所であっても、キッドがそうそう遅れを取る相手がいるなどとは欠片も思っていないはずだ。
それくらいには信頼されている自信も、己の腕に対する自負もあった。
ならば、なぜ?
愚問だ。
考えられるのはあの鼻につく男が別れ際に寄越した、実に軽薄で馬鹿馬鹿しい誘いの言葉である。
停止していた思考回路が繋がったキッドは、それまでの不機嫌など忘れて噴き出した。
「ハハハ!なんだ、キラー、あんなの本気にしてんのか?勘弁しろ、おれはそんな悪趣味じゃねェぜ!」
趣味の悪い冗談は似合わない。
頼むからもう少しマシな冗談にしてくれ、と。
けらけらと笑い飛ばして再び歩き出すキッドは、たぶん気づいていないのだ。
自分の趣味があんまりよろしくないことに。
マスクの下のキラーは、非常に困り顔である。
キラー自身を含め、キッドのクルーはみな見た目も中身も一癖も二癖もある輩ばかりだというのに、
当の本人がそんな自分の趣味に気づかないとは一体どういうことだろう。
物も人も、キッドは「新しいもの」が好きだ。
ついでに言えば、「気に入らないもの」を気に入る悪い癖がある。
トラファルガー・ローはいままでキッドの傍にはなかった、間違いなく「新しいもの」だ。
加えてキッドに対して挑発的で、現在のところキッドにとっては「気に入らないもの」であるとも言えた。
ここまで材料が揃っていて、キッドが興味を持たない道理がどこにあるというのだ。
「……先が怖いな……」
ただ一人事実を知るキラーは、上機嫌に夜風になびく赤いコートを眺めながら、内心頭を抱えていた。
fin.
title:L'Arc-en-Ciel
11月のワンピオンリーで無配した小説でした。
upし損ねてたのでup。