蝶の舌      09.06.20 09.06.25キドロ祭公開 09.06.27掲載



「つ……ッ」

穏やかな眠りを妨げた、鋭い痛みに声が漏れた。
けれどぼんやりした意識はまだ痛みのもとを把握してはいない。
くっついていたがる薄い瞼をゆるゆると押し上げ、二度、三度と瞬きをした。
視界がかすむのは押し寄せる睡魔のせいだ。
室内はまだ暗く、けれどカーテンをひいていない窓に切り取られた空が、夜明けが近いのを告げている。
深く息を吸えば、わずかに血の臭いが混じった。
寝ぼけたままの神経は、それでもようやく痛みの出処に収束する。
嫌な予感とともに耳に伸ばした指先には、ぬるりと粘着質に濡れた感触。
諦めにも似た溜息が漏れた。

ベッドの上にいたのは幸いだ。
枕元に置かれたティッシュは本来血止めのために用意されたものではないが、この際どうでも良い。
適当に引き抜いて指先を拭くと、いまだ血の流れる耳朶をきつく押さえる。
そのうちにこちらが目を醒ましたのに気がついたのか、横にいた男が寝がえりをうった。
なにをするにも派手を好む男が眠っているときに静かなのは、なぜだか意外な気がした。


「……どうした」

寝起きの、低く掠れた声が腰にくるなと薄っすら思う。
それでなくても昨夜の記憶は鮮明なのだ。
少しはご自重頂きたい。

「起こしたかユースタス屋。なんでもない、寝てていいぞ」
「……血の臭いだな」
「ピアス、引っ掻けただけだ。大したことじゃねェ」
「見せろ」

こんなとき、さすがに鋭いと苦笑する。
常人なら気づきもしないわずかな臭い。
あまりに身近な嗅ぎ慣れたそれは、なかなかに業が深かった。

気にするなと言うのに、キッドが聞かないだろうことくらいはローも十分理解していた。
ティッシュのあてられていた耳朶からゆっくりとそれを取り除き、小さな灯りに手を伸ばす。
暖色の、それも最小限まで絞られたそれは、寝起きの弱いローの目に配慮されたものだ。
……まったく、似合わないほど大事にされている。

「……派手にやったもんだな。どんな寝相してんだてめェ」
「フフ。次からおまえの脳天に踵落としきめてやるから楽しみにしてろ」
「ハ、やってみろ。指一本上がらねェくれェに犯してやるよ」

……前言撤回。
やると言ったら良くも悪くも本当にやる男だ。
からかいも度が過ぎるとあまり宜しくない。

「てめェな、血止めする前にピアス外せよ。消毒も出来ねェだろ」
「外してそのまま血ィ固まったらどーすんだ。ピアスの位置がズレてみろユースタス屋。消すぞ」
「おれのせいじゃねェだろうが!」

まったく、とピアスを外すのは諦めたらしいキッドが溜息をつく。
血で汚れたティッシュは早々にゴミ箱へ放ってしまって、けれどそれは目標を外れて床に転がった。
ぐしゃりと丸められたそれが無造作に転がる様は、この部屋に似合いでなんだか卑猥だ。
く、と唇を歪めたローに、キッドが怪訝な視線を向ける。
……が、ローの瞳がおかしそうに細められているのを覚ってなにも言ってはこなかった。

「救急箱とは言わねェが、絆創膏くらい持ってねェのかてめェは」
「悪いな。斬るのが専門なもんで、治すのは得意じゃねェんだ」
「……てめェは解体屋にでも改名しろ」

再び呆れた様子の溜息が聞こえて、実にからかい甲斐のある、と、そこで油断したのがいけなかった。
ぬる、と。
耳を這った感触の正体に気づく前に、ローは小さく声をあげていた。


「ッァ……!」

耳朶を這い、ついでに耳の穴にまで濡れた感触を残し、最後にはやけに可愛らしい音を立てて離れたそれは、紛れもなく。
感触が離れるなり耳を押さえてベッドの上をじりじりと後ずさったローに、男は笑った。
ローの血を乗せた赤い舌を出して、深紅の双眸を細めた男は笑ったのだ。


「………消毒。」


吐息に乗せたその囁きを、ぺろりと赤い舌ごと仕舞い込まれて、やられた、と悔しがる暇は果たしてあっただろうか。
計算ずくなのだ。すべて。
いつのころからかローの油断を誘うことを覚えた男は、実に性質が悪かった。

「起きるには、まだ早いだろうが」

身を寄せたキッドが囁いて、傷のない耳朶に今度は歯を立てる。
きりきりと力を込める様は、まるでローが己でつけた傷痕に嫉妬するようだ。
思わずついた溜息は、すでに濡れた色を含んでいた。


ちらりと上げた視線の先。
明けの明星も欠けた月も、まだ沈まずに空でもがいている。
夜などまだ明けなければいい。
不埒な思いに駆られながら、ローはキッドの髪に指を通した。


fin.


title:Vogus Image

乙女過ぎましたすみませんはしゃぎ過ぎました…!
キドロ祭開催ほんとにありがとうございます!!
海老さま主催のキドロ祭(PC)に投稿させて頂いたものでした。