029.唇に触れ ※ファンブックifキセキネタ

2012.07.05  黒子のバスケ 青峰×黒子  警察官青峰×保父さん黒子
「マジでつれぇ……」

被っていた制帽をデスクに放り、パイプ椅子にだらしなく足を広げて腰掛けて、青峰はぐったりと天を仰いだ。
視界に広がる、落ち着いたクリーム色に小花模様の描かれた天井は、見慣れた警察署の無機質なそれとは大違いである。
何をするでもなくぼんやりと眺めていれば、きゃあきゃあとはしゃいだ声が聞こえて、青峰は顎を上向けたまま視線だけを窓の外へと投げた。
園庭を見回せるよう、出入り口も兼ねて大きく取られた耐ショック仕様の割れにくいガラス窓。
最近何故だか子どもに人気の、鋏を武器に悪と戦うアカシマンのステッカーがぺたぺたと貼られたその向こう。
疲れを知らない子どもたちが、あちらへこちらへと駆け回っていた。

「それいけアカシマーン!」
「いけいけアカシマーン!」
「ぼくにさからうとおぉぉ…シャキーン!」
「シャキーン!!」
「うおおおおぁぁやられたあああぁ!!!」

小さな手をチョキの形にして振りかざし、敵に向かって突進していく子どもたち。
大仰なリアクションで地面に倒れ、子どもたちに負けない騒がしさで敵役を演じているのは、青峰の同僚であり、先輩でもある若松だ。
倒れ込んだ若松の上に容赦なく圧し掛かってくる子どもたちを、満面の笑顔であやしている。

「なにやってんだあのバカ松…」

用意された控室にやってこないと思ったら。
どうやら頭の中身が保育園レベルまで下がったらしいと決めつけて、青峰は大きく息を吐いた。
よくもまああの無尽蔵のエネルギーを誇るガキ共を相手に、延々と付き合っていられるものだ。
こちらはたった1時間の講習でさえも疲れきってしまったというのに。
学生時代、部活動に明け暮れた青峰も体力には自信があったが、あの小さな生き物を相手にするには、また違った体力が必要らしい。
それが備わっているあたりは素直に評価してやってもいいかもしれないとこっそり思う。本人に伝えてやる気はもちろんない。
配属されたときからの付き合いである若松とは、まったくと言っていいほど気が合わなかった。
あちらも傲岸不遜な後輩を扱いづらく思っているのか、ペアを組まされているというのに毎度喧嘩が絶えないのだ。
大抵は若松がぎゃんぎゃんと噛みついてきて、耳をほじりながらの青峰が適当に聞き流しているのだが。
それがますます若松がヒートアップする理由になっているのだと、残念ながら青峰には自覚がなかった。

窓の外では若松と戯れる園児が増える一方で、―――桜井といっただろうか、若い保育士がぺこぺこと頭を下げている。
制服を砂まみれにしながらなおも園児と触れ合う若松から視線を外し、青峰は再び天井を見た。
先日のやり取りを思い出して舌を打つ。こんな用事を言いつけた署長の今吉がまったくもって憎たらしい。
この保育園が恋人の勤め先でさえなかったら、途中でとんずらしているところだ。
おそらくはそこまでしっかり読み切って、青峰と若松を指名したのだろうが。
州立帝光保育園。
その昔自らも世話になっていたこの保育園に、青峰は今日、交通指導のために訪れたのだった。

中学で出会い、一度は拗れて別れてしまった恋人とは、紆余曲折を経てまたよりを戻した。
卒業したその日に相手の高校の門前でプロポーズ紛いの求愛をし、周りの連中に冷やかされて顔を真っ赤にした恋人に容赦なく腹部を殴られたのも、今では良い思い出だ。
学部は異なるものの同じ大学へ進んだ恋人を口説きに口説いて同居に持ち込み、もう六年来、同棲生活を送っている。
寝汚い自分を時に優しく、時に厳しく起こしてくれる恋人は、今朝方はどこか浮かれた様子だった。
あまり表情を表に出さない彼―――そう、彼であるが、理由を訊ねればもごもごと口ごもりながらも小さな声で教えてくれた。

『今日は、仕事場でもキミに会えるから――、つい、浮かれてしまったんです』

まったく、あの場で押し倒さなかった自分を心の底から褒めてやりたい。
その分「いってきます」のキスがいつもより長くなってしまったのはご愛嬌だ。

「あ―――…」

だめだ。
思い出したら急に恋人の顔が見たくなってしまった。
慣れない園児を相手に交通指導をしている最中、園庭に出て手伝ってくれていた保育士の中に彼の姿もあった。
足元にわらわらとまとわりつく園児をうっかり踏まないように慌てる青峰を見て、彼はくすくすと楽しげに笑っていた。
「後で覚えとけ」と口の動きだけで伝えると、ぷいと視線を反らしてしまったのだけれど。

講習も終わり、あとは必要書類を記入して、次回の講習の時期を打ち合わせたら業務終了だ。
慣れない仕事は疲れるだろうからと、署に戻って書類を提出した後は帰宅していいと言われている。
必然、今日は恋人の方が帰りが遅くなるから、たまには夕飯の準備くらいしておこうかなんて考えた。
料理はからっきしだったけれど、恋人にばかり負担をかけるのは嫌で彼に教わりながら覚えたのだ。
こだわり始めると案外凝り性だったのが良かったのか、今ではそれなりに手間のかかるものも作れるようになった。
それもこれも「美味しいです」と笑ってくれるあの顔見たさによるのだと思えば、我ながら健気なものだと目尻を拭いたくもなる。

愛しくて、仕方がないのだ。
一度は傷つけてその手を離してしまったからこそ、今は心から大事にしたいと思っている。
彼の強さを知っていると同時に、その弱さも知っているから。
守りたいと思うのに守らせてはくれなくて、甘やかしたいと思うのに逆に甘やかしてくれる。
なかなか思うようにはさせてくれない天の邪鬼な彼だから、せめてずっとそばにいたいとそう思うのだ。

「テツ……」

たまらなくなって恋人の名前を音に乗せた、ちょうどそのとき。

「はい?呼びましたか、青峰くん」
「―――…え、テッ、うおあっ!?」

返事があるとは思っていなかった呟きにまさかのいらえがあって、慌てて姿勢を正した青峰は危うく椅子から落ちかける。
持ち前の反射神経とバランス感覚で体勢を整えたのだけれど、ひやりと背を伝った冷たい汗までは隠せない。
ばくばくと早鐘をうつ心臓に落ち着けと言い聞かせる青峰を見て、小さな溜息を漏らす彼の恋人である。

「まったく。そんな格好してるからですよ」

制服着てるんだから、かっこよくぴしっとしててください。
そう笑った恋人―――黒子テツヤは、そっとアイスコーヒーを差し出した。
青峰の好きなようにブラックで淹れてくれただろうそれを有り難く受け取って、こくりと一口飲み下す。ほっと息を吐いた。

「…お疲れさまでした。子どもたちの相手は体力が要ったでしょう?」
「っとによ。バケモノかよあいつら」
「キミに言われるなんて、彼らも心外だと思いますけど」
「うるせぇ」

唇をとがらせてコーヒーを啜れば、またくすくすと笑う黒子である。今日の彼は本当に機嫌が良い。
朝に聞かせてくれた言葉が理由だとするならば、可愛らしいことこのうえないのだが。

「君と違って、若松さんはお元気ですね。…ああ、黄瀬くんにあんなに懐かれて」
「黄瀬ェ?」
「ええ。子役とモデルをしてる…ほら、あの黄色い髪の子ですよ」

言われて再び窓の向こうへと視線をやれば、なるほど、若松の上に件の子どもが乗っていた。
空色のスモックに黄色い頭、遠目にもくりくりと大きく見える目は、確かに可愛らしい顔立ちだ。

「あれでいて人見知りする子なんですけどね。お昼寝の時間なんか、テツ先生がいてくれなきゃ眠れないって、僕から離れてくれなくて」
「……一緒に寝てやってんのか」
「そりゃあもう。可愛くて仕方ないですから」
「へぇ……」

知らず、青峰の瞳が眇められる。唇から漏れた言葉も、ほんのわずか低くなったよう。
青峰は無意識らしいが、黒子にとってはまったくもってわかりやすい反応だ。

(ほんとに…いったい幾つ離れてると思ってるんだか)

だいたい、キミとは毎晩一緒に寝ているでしょうに。
保育園児にまで嫉妬するらしい青峰に、ずいぶんと大きな子どもがいたものだと黒子は目もとを和らげた。

一度はわからなくなってしまった恋人が、今ではこんなにもわかりやすい。
再び彼のそばにいられることが嬉しくて幸せで仕方ない。
あのとき手を離してしまったことを後悔していたから、もう一度彼が手を伸ばしてくれたとき、今度こそは間違えないと誓ったのだ。
ぎゅう、と胸を締めつけられた気がして、黒子はすっと視線を逸らす。

(……困りましたね)

職場だと、わかってはいるのに。
いつもは朝に別れた後、夜まで会えない恋人がすぐ傍にいる。
それも滅多にお目にかかれない制服姿だ。これで胸を高鳴らせるなと言う方が無理だろう。
火照ってきた気がする頬を冷まそうと、手でぱたぱたと扇いでいたとき。

「―――――テツ」

甘さを含んだ低い声が聞こえて、どきりと心臓が震えた。
しまった、そう思ってももう遅い。
青峰から視線を逸らしていたせいで、彼がこちらを見ていたことに不覚にも気づかなかったのだ。
おそるおそる青峰を見やれば、指先で襟元をくつろげながら、熱を含んだ目が誘っている。

「……だめです」
「なんで」
「ここは職場です」
「だからどうした。誰も見てねーよ」
「見てないとかそういう問題じゃありません。僕もキミも勤務中で…」
「どのツラして言ってんだバァカ」

黒子の諫言など初めから聞く気はないだろう青峰がおもむろに手を伸ばす。
咄嗟に身を引こうとしたけれど、青峰の俊敏な動きにまさかついていけるはずもなかったのだ。

「ッ、あお…!」

ぐいとエプロンの胸もとを掴んで引き寄せられ、バランスを崩す。
倒れかける黒子を軽々と受け止めた青峰に苦言を呈すべく顔を上げて、小さく息を呑んだ。
野性的でいて整った相貌がすぐ目の前。
唇が触れる寸前でとどまり、深い藍色を宿した瞳を間近に見る。
視線に射抜かれるまま耳にしたのは、

「………好きだ」

ああ、ほんとうに、敵わない。

吐息に乗せて低くささやかれた言葉は、黒子を陥落させるには十分で。
ご褒美をねだるために柔らかく触れた唇に、黒子はゆっくりと目を閉じた。




窓の外、晴れた園庭。
視界を遮るもののないガラス越しに口づける二人を目撃して、ぴしりと凍りついたのもまた二人。
元気な敵役と黄色いアカシマンが揃って悲鳴を上げるまで、残すところあと三秒。







我に返ったテツ先生が青峰くんの腹にイグナイトかましてどたばた教室出ていくに一票。
青峰くんは若松先輩に怒鳴られながら署に帰ってお買い物行ってお夕飯で懐柔して夜のご褒美に備えるといいです。