― コバルトの海で ―






「……ここにいたのか」

夜明け前の空は紺青に包まれている。
波音さえかき消すような風の中で、男の低い声は耳に届いた。
乱れる銀糸が視界の邪魔をする。
振り返った先には、おざなりにシャツをはおり、らしくないよれたパンツに脚を通した男の姿だ。
床に放り出したままだったそれをわざわざ拾ったのだろうかと思えば、少しおかしかった。

「んな格好じゃ風邪ひくぞぉ」
「てめぇに言われる筋はねぇ」

言われて自分の姿を見下ろし、もっともだと唇を歪めた。あまり男と変わりない。
まだ春の兆しはないのだが、寒くないのはどうしてだろうなとぼんやり考えた。

「とっとと戻れ。俺はまだ眠い」
「なんだぁ?ボスさんは俺がいねぇと眠れねぇのかぁ?」
「海に里帰りさせられてぇか」
「はは、悪くねぇかもなぁ」

軽口を叩けば、後頭部にごつりと冷たく硬い感触だ。
どこに持っていたのか、相変わらず武器を隠すのが上手い。

「冗談きちぃぞぉ、」

勘弁しろ、と両の手を上げて降参を示す。それで引き下がる男でないのは承知のうえだ。
まだもう少しここにいたいのだと、どうやって伝えよう。



今まだ日本にいる子どもに、正式にボンゴレを譲り渡すことが決まったのは二週間ほど前のことだ。
九代目ドン・ボンゴレから直接その話を聞いたときも、男は実に静かなものだった。
なんの感慨もなく書面を受け取り、あっさりとペンを走らせたのには心底驚いた。
落胆も怒りも諦めも、そこにはなかったように思う。
初めてザンザスが分からないと思った瞬間だった。
署名をしたそのときから、ヴァリアーに対する監視の目は表向き解かれた。
甘い蜜をたっぷり吸って肥え太った古狸どもは端からどうでもいいが、少なくとも一番面倒だった家光の監視がなくなったのは、正直ありがたかった。
さすがに息苦しくてたまらなかったのだ。
延命と引き換えに監視のついた不自由を与えられたのは、思えばもう、四年は前になるのだろうか。
常にある自分達とは異なる気配さえ除けば、変わり映えのない日々だった。

ボンゴレ本部を後にしてすぐ、ザンザスがどこかへ発つと言うのにスクアーロはついてきた。
どこへ行くともどれだけの期間になるとも言わない男に、ただいつものように付き従った。
それは決して特別なことではなかったのだが、ザンザスの横顔がやけに満足そうに見えたのは覚えている。

そうして専用機で四時間、絶海の孤島とでも言うべきか。
いつのことだったか、ザンザスが島が欲しいと言っていたのは耳にしていたが、まさか本気で買っているとは思わなかった。
思いきりがいいというのか、いつの間に手に入れていたのだろうか。
呆れるスクアーロの前で、ついてくるのか来ないのか、と今さらながらに訊ねたザンザスはやはり暴君だった。

二人を降ろした後すぐに専用機は引き返してしまって、スクアーロは非日常へと引き込まれた。
昇る朝陽と沈む夕陽とを何度繰り返し目にしただろうか。
紺碧の海はどこまでも広がり、他のなにをも見ることはなかった。
見る必要がなかった、という方がより正しいかもしれない。
小ぢんまりと、けれど豪奢に造られたその邸に到着するなり引き込まれたベッドの中、寝ては起きて繋がり合ってを繰り返していただけだからだ。
久しぶりに自堕落な時間を過ごした。
誰に邪魔されるでもなく、誰に気を張るでもなく。
ほんの少しの間だけだが、今よりもずいぶん幼かったザンザスと過ごした頃の記憶と奇妙に重なった。
久しく触れていなかった感覚だ。
けれどあの頃といまと、何が違うのか何が変わったのか、スクアーロには分からないままだ。

つい二日前、ヴァリアーの書簡でルッスーリアから知らせが届いた。
日本からボンゴレを迎えるその日に、皆揃って顔を出せという実に率直な命を伝えるものだ。
記された日付は、ちょうど今日この日だった。
日付が変わる前、飽きもせずにまたベッドで戯れて、わずかな睡眠にすがりついた後、スクアーロは一人海辺へ足を向けていた。
昼間は白く目に痛いほどの砂浜も、月のない夜では暗く染まって足をとられそうなほどだ。
きらきらと輝いて見えた海も、いまは漆黒に塗られている。
陽が昇れば、また日常へ戻らなければならない。
どうも整理が付けられないでいる、忌々しい現実もすぐそこまで迫っている。
初めは訳が分からないでいたのに、いつのまにかこの場所を離れたくなくなったのはスクアーロの方だった。
こんなに人間らしい感情が自分の中に残っていたとは、露ほども思わずにいたのだが。



「……いい加減冷える」

低い声音に、は、と意識を戻す。
銃口はすでに傍になく、ザンザスの手からも消えていた。
呆れた風を装ったザンザスの手がスクアーロの髪を絡め取るのに、ふと思い至る。
『ここにいたのか』と男は言った。
まさか探していたのだろうか。自分を?
思って再び視線をザンザスに移せば、鮮やかな赤と交差した。
無意識に、スクアーロの銀灰が細められる。
その表情に、ザンザスの眉がぴくりと跳ねた。

「似合わねぇなぁ、ザンザス」

苦笑混じりの言葉に、返る声はない。
似合わない、とは言ってみたものの、なんとなく表現が違う気もする。
似合わないというより、懐かしい、だろうか。

もうあと少しで、現実に還る時間だ。
頭の中では色々と絡まったままだが、開き直りはスクアーロの得意とするところだ。
受け入れるでもなく反発するでもなく、とりあえずはただ還るとしよう。
そう思って、気がついた。
もしかしたら男は、書面を手にしたそのときにすでに理解していたのかもしれない。
受け入れる必要も、逆らう必要もないことに。
ただ己が変わらずそこに在ればいいのだと。
いつからかずれてしまった歯車が元に戻った気がしたのは、男が自然であったからだろうか。
あまりに唐突過ぎて、男が自然体であることにスクアーロの方が気づけなかった。
とんだ失態だ、と思わず噴き出したのを、ザンザスが怪訝そうに見遣る。
なんでもない、と笑いを堪えて俯くスクアーロの髪を、ザンザスが少しばかり強く引いた。





波の音が増した気がした。
吹き荒れていた風が俄かにおさまり、色合いを変える空とともに、遠く、夜が明けていく。
海と空との境目で、深緋と濃藍が混じり合う。
なにものにも侵されることのない、鮮やかなその色には覚えがあった。


「……あんたの、色だなぁ」


スクアーロが目を細めて呟く。
そうしてふるりと震えた肩を、ザンザスは強引に引き寄せた。
瞬間目を瞠ったスクアーロが、次の瞬間には破顔する。

「だから、似合わねぇって」
「うるせぇ」

大人しくしてろ。
耳に届いた声が思いのほか穏やかで、スクアーロは目を閉じる。
瞼の裏を焼いていく、光は焦がれてやまないそれと同じ色をしていた。

fin.


09.02.28 企画サイト様に投稿させて頂きました。 << Back