― 春死音 ―
Belfegor×Squalo






抜けるような青空が目に痛かった。
気に入りのバルコニーに立って、見える景色は変わらないのに。
小憎らしいと思っていた赤ん坊の姿もなければ、暇つぶしにちょうど良かった銀髪の姿も今はない。
ずいぶんと痛みの取れた細身で凝った造りの柵へともたれ、松葉杖を投げ出して、交差させた腕に顔を埋めた。


「あーあ、王子つまんね」


腹から息を吐き出しつつの言葉を、聞きとがめる者もなく。

ほんの少し前までなら、元気がないじゃない、と女言葉で、アッサムかアールグレイかアプリコットか、
何故かその日の気分ぴったりの紅茶をルッスーリアが持ってきてくれたし。
膝か肩かに乗ることを好んだ赤ん坊が、それとない言葉をかけてくれたし。
喧嘩腰に挑戦的に、それでもどこか気遣ってくれるあいつもいた。
今はそのどれをも望めない。
ゴーラはいつもボスと一緒だし、レヴィにそれを期待するでもない。

(王子、美意識あるからね)

相変わらず訪れる世界は変わらないのに、自分の日常だけがまるで反転したように変わってしまった。

夏を過ぎて、頬を撫でていく風が少し冷たい。
金糸が視界に揺らぐのを捕らえ、異なる色を思い出す。
鮮やかな記憶が耐え難くて、ベルフェゴールは目を閉じた。

色素、というものが、彼からは欠如していた。
口さえ開かなければ、血の通った人間とは一線を画したような。
精巧な造りの硝子細工にも似た、透明感と危うさとを持っていた。
けれどその内には確かに命が流れていて、強い意志が存在して。
ザンザスが何を考えているのか、ベルフェゴールにはわからなかったが。
彼―――…スクアーロはザンザスを理解し、確かに何かを誓っていた。
あれだけ理不尽な態度をとられて、尚。

『おまえさ、Mなんじゃねぇの、スクアーロ』
『う゛お゛ぉい、んなわけあるかぁ』
『うしし』

いつか、そうからかったことがあった。
本人に確認するまでもなく、傍目にはそうとしか映らなかったのだが。

『だってさ、あんだけ殴られても離れないとか』
『……うるせーなぁ』

端整な面を思い切り不機嫌にしかめて、彼は否定したのだった。

『いいんだよ、オレが勝手に誓ってやったんだぁ』

何を、とは訊けなかった。
そのときの彼がどうにも遠く見えたせいなのか、その表情に浮かんだ誇らしげな色のせいだったのか。
今でも、その答えは出ないけれど。何故か羨ましいと思ったのは、確かで。

『…意味わかんね』
『っはは、ガキにはわかんねぇよぉ』


そう言ってくしゃりと笑って見せる、その表情が気に入っていた。

自分の知る彼は強かった。
ヴァリアーに入隊する以前から、その名は耳にしていたし。
入隊した経緯と、入隊後の実績と。
少なくともベルフェゴールが知っている限りでは、そのどれもが人間離れしたものだった。
血の臭いを好み、標的を斬り刻むときに見せる残忍な表情と、その任務を終えた後の満足そうな表情と。
頬に飛んだ返り血がそれを引き立てて、いっそ艶やかなほどに。
その彼が相好を崩すのが、例えザンザスの動向に限ってであっても、ベルフェゴールは気に入っていた。

それがこんなに早く失われるものだとは、思ってもいなかったのだ。


「…寝よ」


きっと睡眠が足りない。
今更どう考えてみたところで、彼が戻ってくるわけではない。
室内へ戻ろうとして、身体が揺らいだ。
そういえば松葉杖を投げ出したのだと思い出して、舌打ち。
拾い上げるのも面倒で、壁を伝うようにして窓際のベッドへ身体を投げ出した。

枕元には、バカ高い値段の水差しと、見慣れた錠剤。
回復のためには眠るべきだと、眠りの浅いベルフェゴールのために調合された白いそれ。
パキリと包装を破って、2、3、口の中へ放り込む。
水もなしに嚥下して、途端に訪れる眠気に苦笑をひとつ。

(さっすが、バカに効くじゃん)

市販薬ではこうはならない。
それに、毒薬には耐性のついた身体だ。
大抵の薬物はその効果がなんであれ効き目が弱い。
いとも容易く眠気を呼び起こすのは、腕のいい薬師が調合したからなのだろう。

ふわり、意識が宙に浮く。
きっとすぐに、眠りにつける。
そう、目を閉じた頃。
心地の良い感覚に紛れて、締め付けられるような感情が見え隠れする。
理性で抑えていたはずのそれは、薬による混濁で、どうやら境をなくしたらしい。

(なんだよ)

考えるな。
考える、べきではない。

眠りにつこうとする意識とは逆に、心は欲する物を知っているらしい。
けれど求めたところで戻ってこないのは、意識も心も理解していて。
現実と非現実とが入り混じるなか、重い色をしたそれは浮上してくる。
込み上げる感情は容易く決壊して、気づけば、それを音にしていた。


「…ふざけんなよ」

オレ王子だよ。
王子に断りなく死んでんじゃねーよ。
哀しいとか、淋しいとか、
王子にそんなもん教えんじゃねーよ。


「ふざけんな…っ」


耳に届いた声は震えていて。
噛み締めた唇が痛いのはたぶん気のせいで。
目の奥が熱くて落ち着かないのも、頬の濡れた感触も、きっと全部。

「スクアーロ…」

消えた、ただ一人に向ける、この感情の名は知らないまま。

廻る、世界はゆっくりと加速していく。
きっと明日はすぐそこだ。
ただ、滲んで見えないだけで。


fin.



06.11.20 君のことが好きでした。 << Back