Kiss×Kiss! 12.08.11 12.12.12掲載



※夏コミ無配



社会人であるマルコとまだ大学生であるエースには、どうしても生活の時間にずれがある。
それも学生が夏休みに入るこの時期では尚更だ。
いつもは定時で退社するマルコだけれど、このところは受け持ちのプロジェクトが大詰めらしく、帰宅が深夜になることも珍しくない。
そこに加えて、エースが夏休みを利用して午前中からアルバイトに出ているとあっては、なかなか生活の軸が合わなかった。
エースが眠った後にマルコが帰宅して、マルコが起きるよりも早くエースが家を出ていくこともあれば、いつ眠っているのかと心配になるほど早くマルコの方が家を出ていることもあった。
不満がない、と言えば嘘になる。
けれど面と向かって淋しいのだと言えるほど、素直にもなれなかったのだ。

「……今日も帰ってこねえ、か……」

食卓の上、ラップのかけられた山盛りの肉じゃがを行儀悪くつついてみながら、結構美味かったんだけど、と小さくぼやく。
昼ごろに一度、今日も遅くなるとメールが入った後は連絡がない。
いつもはエースの休憩時間を見計らって電話をかけてくるはずのマルコがメールを使うのは、例えばエレベーターの中だとか、移動中の車の中だとか、ゆっくりと時間が取れないときに限られている。
この時間になっても連絡がないということは、きっとまたエースが眠った後で帰宅するのだろう。
これで三日ばかり、顔を見ていない。
目が醒めるとベッドにはマルコがそこにいた形跡があるのだけれど、すでに温もりも消えた後なのだ。
脱ぎ置かれたシャツと残り香ばかりがその存在を主張して、ふいに湧き上がる感情には気づかないふりをしながら、すんと鼻を鳴らすのがエースの日課になっていた。

「肉じゃがは冷蔵庫に入れて…みそ汁は…小さい鍋にでも移しとくか」

夏場は特に気をつけないと、すぐに傷んでしまう。
冷房の効いたリビングに鍋ごと移すことに決めて、エースはごそごそと棚を探す。
いつも綺麗に整理しているおかげで程なく見つかった鍋にみそ汁を移し換えながら、ほうと溜息を吐いた。
これはマルコが夜食にしてくれてもいいし、自分の朝食にしてもいい。
次に食卓で顔を合わせるのはいつだろうなとすこしばかり淋しいことを考えつつ、手早く支度を終えたエースはバスルームへと足を向けたのだった。


◇ ◇ ◇


きっちりと締めていたネクタイを解き、こめかみを親指でぐりぐりと刺激しながらのマルコがドアにキィを差し込んだのは、時計の長針と短針が文字盤の2の辺りで追いかけっこをするころだった。
海外支社の対応が鈍く、納得のいく回答を得られるまで待っていたらすっかり午前様だ。
急なトラブルなど仕事には常について回るものだが、これなら自分が現地入りしていた方がよほど早くプロジェクトを完成できる。
すこし前のマルコなら飛行機に飛び乗り、それこそひとっ飛びに怒鳴り込んでいただろう。
けれどいまのマルコには、多少の遅れがあっても国内に留まりたい理由があった。


玄関を入ってすぐ、しんと静まり返った通路には仄かに間接照明が灯っている。
やわらかなオレンジ色の光にどうしてかほっとするのだと教えてくれたのは、他でもない、いま寝室で眠っているだろう恋人だ。
彼と暮らし始めるより以前は、マルコのマンションには生活臭の欠片もなかった。
観葉植物ひとつない、まるでモデルルームのような冷たい部屋に帰り、体が必要とする休息だけを取って、また会社に出かけていく。
機械のような生活がつまらなくないのかと呆れたように言ったリーゼントスタイルの悪友が一人いたが、そんな厭味も鼻で笑うのがマルコという男だったのに。
それがいまでは、定時で帰れば美味しそうな夕食の匂いと笑顔の恋人がおかえりと出迎えてくれるのだから、人生とはわからないものだ。
今日のように彼が眠ってしまっていても、ダイニングテーブルの上には簡単に走り書かれたメモと手作りの夕飯が用意されているのだから。
暑過ぎず、冷え過ぎない。
リビングに一歩足を踏み入れた途端に自らを包み込む、まるで一流ホテルみたいに違和感を与えない空調は、マルコにほのかな安堵をもたらした。
解いたネクタイをソファへと放る。
その流れで視線を移せば、クロスの上に、伏せられた茶碗がふたつと取り皿がひとつ置かれていた。
どちらも二人で暮らし始めるときにエースと色違いで揃えたものだ。
すっかり見慣れたそれらに添えられたメモには、

『おかえり、おつかれさま! 肉じゃがは冷蔵庫、みそ汁は鍋! ご飯はいつもどおりな!』

と綺麗とも汚いとも言い難いエースの字で書かれている。
自分もアルバイトで疲れているだろうに、必ず手作りの食事を用意してくれる彼にマルコの口角がふと緩んだ。
夕飯さえも一緒に食べてやれないことを申し訳なく思う。きっと不満も抱えているだろう。
けれど健気な恋人は、それを綺麗に押し隠すのだ。
すこしくらい我儘を言ってくれても、あるいは怒ってくれさえしてもいいとも思うのに。
内へ内へと溜め込まれる方がよほど辛いのだとは、きっと彼には想像もつかないことだろう。
他人の痛みは背負ってやるくせに、自分の痛みを分けることなどしてこなかった彼だから。
甘やかしたくて仕方ないのだと、どうしたら理解してくれることか。
この歳になってまったく難儀な悩みだと苦笑を浮かべ、マルコは寝室へと足を向けた。


◇ ◇ ◇


キングサイズのベッドの上、すこしばかり右によって、こんもりとした山がある。
まるくなって眠るくせのあるエースは、ときどきタオルケットごと抱き込んで山を築くのだ。
手触りの良いパイル生地のそれは、夏の初めに出かけたアウトレットモールで買ってきた。
マルコ一人であれば、絶対に足を運ぶことのない場所だ。フットワークの軽いエースは、そこかしこに気に入りの場所を持っている。
街中のパンケーキの美味しい喫茶店だったり、音響設備が抜群に良いライブハウスだったり、図書館そのものには興味がないくせに、建物の裏手に広がる庭、昼寝にはもってこいのとっておきの場所を知っていたり。
時にマルコが嫉妬を覚えるほど溺愛している弟にも教えない自分だけの秘密の場所を、マルコには惜しげもなく教えてくれる。
「内緒な」と笑う表情はまるっきり悪ガキのそれで、幼い秘密の共有には艶めいたやり取りなんてひとつもないのに、たまらなく愛しくなるから不思議なものだ。
胸の奥をやわらかな羽根でくすぐられるようなこそばゆさは、けれどどこか温かくて幸せな気持ちになれる。
エースがくれるものはなんだって、マルコにとっては宝物だ。

規則正しい、穏やかな寝息が聞こえている。
巻き込んだタオルケット、まるでプレゼントの包みを開くようにゆっくりと剥いでみれば、無防備なエースの姿がそこにあった。
目を閉じると途端に幼くなる寝顔に目尻を下げ、マルコはふわふわとした癖毛を撫でる。
案外やわらかなそれはマルコの指先に馴染み、なんだか猫でも愛でているような気分だ。
図体と食欲ばかりは大型の肉食獣なのだが。
自分の思考に思わずくつりと漏らした声が聞こえたのか、んん、とエースがむずがった。
しまったと思うも時すでに遅く、薄っすらとエースの目が開く。
眠りを無理に妨げられた黒曜石は潤み、まるで幼子のような表情とは正反対に艶っぽい。
無意識に煽ってくれるなと苦笑を噛み殺し、マルコはエースの額に口づけた。

「悪い、起こしたかい」
「ん…、いっつも、起こせって言ってんだろ…」

むにゃりと夢うつつのままに、寝起きの甘ったれた声で呟かれる文句はまるで睦言だ。
こしこしと目を擦りだすエースの手をやんわりと制し、代わりに瞼にもひとつふたつと唇を落とす。
そばかすの散る頬に、つんととがった唇に、エースの抵抗がないのを良いことに幾度も口づければ、だいぶ目が覚めてきたらしいエースがくすくすと笑った。身じろぐたび、ふわりと夏らしい爽やかなグリーンアップルの香りがする。
首筋に鼻先を埋めると、持ちあがったエースの手がマルコの背をぽんぽんと叩いた。

「ボディソープ、新しいの開けたのかい?」
「ん、ふ、ばか、くすぐってェ…」

鼻先を擦りつけるとエースの肩が揺れる。
けれどそこに拒否の色はなくて、背を叩く彼の手はまるで幼子をあやすようなそれだった。
ガキみたいになにをしているんだかと、自分でもおかしく思う。けれどエースに甘やかされるのは、案外悪い気はしないのだ。
ゆっくりと身を起こし、エースの額と自分の額をこつりと合わせる。
近過ぎてぶれるエースの目が、やわらかな色でマルコを見た。

「…おかえり」
「ああ…、ただいま」

ぎゅう、とエースを抱きしめると、同じだけの強さで返してくれる。
そうしてまたひとつ、今度はエースから唇にキスをおくられて、マルコは目を細めた。

「風呂は? あとメシ…」
「これからだ。自分でやるから、もう寝てろい」
「ばーか。あんた下手したらみそ汁もレンジであっためるだろ…ちゃんと用意してやるから、ゆっくり浸かってこいよ。シャワーばっかじゃ疲れ取れねェんだからな」
「…そこまで横着しねえよい」
「たまご爆発させたの誰だっけ?」
「………」

すこし前の失態を思い出して反論の止まったマルコに、エースはまた静かに笑った。
悔し紛れだろうか、やんわりと唇に噛みつかれる。
仕事でもプライベートでも完璧超人ぶりを発揮するくせに、エースの前でだけはこんな可愛らしい一面も見せてくれるのだ。
自分だけが知っているマルコの側面だと思うと、エースの胸は甘くさざめく。
付き合いだしてもうずいぶんになるけれど、いつまで経っても色褪せやしない。
愛しさが目に見えるなら、きっとこんな形をしている。
気が済むまで噛みつき、口づけた後。
まだ唇の触れる距離で、マルコが静かに問うた。

「……バイトは」
「明日は急な都合で休み。…だからあんたが気にすることじゃねえよ」

いま起きたところで支障はないと言外に告げるエースに、マルコがふと目元を和らげる。

「だったら、明日の夕飯はどこか食いに出るかい」
「へ?」
「半休つけてきたんでな。明日は三時には終業だよい」

だから今日は無理がきく。
言いながら、Tシャツの裾を割って潜り込むマルコの不埒な手をぺしりと叩いた。

「こら…、だめだ、おれのメシが食えねえってんならやらねェ」
「おまえ寝かした後で食うよい」
「だーめ。あんたの健康管理はおれの仕事なの」

職務放棄させんな。そう笑うエースにむんずと自慢の高い鼻先を摘まれてしまっては、マルコの男ぶりも型無しだ。
ぷは、と噴き出したエースの前、霧散してしまった艶っぽい空気に溜息を吐いてマルコは身を起こした。
ベッドに腰掛けたままエースに背を向け、着けたままの腕時計を外しにかかる。

「マールーコ、拗ねんなよ」
「うるせえよい」

別に拗ねていないと言い張るマルコの背は、誰の目にも明らかに拗ねていて。
大きな子供はこれだからと内心で破顔しつつ、エースはマルコの背に額をくっつけた。
シャツ越しにも鍛えられた背中が小さく反応して、エースの体温を受け入れる。
ごそごそと動いていたマルコの手が止まったのを確認して、エースはゆっくりと話しかけた。

「…風呂。入ってきて、メシ食って、……そんでもあんたがまだ眠くなかったら、そんときな」

だからもうちょっと我慢しろ。
笑って告げれば、マルコがくっと笑う様子。

「…もうちょっと艶っぽく誘えよい」
「うっせえばかマルコ」

このエロオヤジ、と付け足してやると、とうとうマルコの肩が揺れ出した。
軽口じみたコミュニケーションはいつものこと。
すっかりご機嫌を直したらしいマルコに、エースはぐりぐりと額を擦りつけた。
マルコの腹に腕を回して抱きつくと、マルコがエースの手を包んでくれる。
自分よりも年を重ねたマルコの手は大きくて温かくて、

「エース」

自分を呼ぶマルコの声は、いつだって甘い。
顔を上げたらまたキスをねだられるのだろうなと思いつつ、どこかでそれを期待する自分に、エースは苦笑を噛み殺した。


fin.

2012.08.11 夏コミで無配させて頂いたものでした。
2012.12.12 掲載

<< Back