※リーマンパロ 「―――んだァ?こんな日まで残業かユースタス屋」 聞こえた声に顔を上げれば、眼鏡ごしの視界には仕立ての良いチャコールグレーのスーツもむなしくネクタイを緩め、黒革のビジネスバッグを手にしたローが映った。 ついでに見えた時計の針は午後十時を指している。 いつの間にこんなに時間が経っていたのかと少々自分に呆れつつ、キッドはこきりと首の骨を鳴らした。 「てめェの部署は吹き抜け挟んだ向こうだろ。何やってんだ」 「周りはとっくに帰ってんのにここだけ明かりついてたから気になったに決まってんだろう」 「……そりゃあどうも」 男の気まぐれは毎度のことだ。 大方いつものようにのんびりと仕事をこなし、終業を過ぎてもだらだらと自分のデスクで茶菓子を頬張っていたに違いない。 男のすぐ下につく有能な部下は確かペンギンといっただろうか。 甘やかすなというのに好んで菓子を買い与えるのだから、少しばかりキッドの苛立ちをあおる。 「最近上も残業にはうるせェから、あんまり残ってるとドレーク屋の血圧が上がるんじゃないのか」 「他人んとこの上司に妙な呼び名付けてんじゃねェよ」 あの生真面目な男の耳に入ったらどやされるぞ。 無駄とは知っていても一言忠告をしてしまうのは、どうもなおらないキッドの癖だった。 「フフ。で、終わる気はないのかユースタス屋。それともリミットが迫ってるとか」 「期限はまだ先だがな。今日のデータを中途半端にしとくと後が面倒くせェ」 「見た目にそぐわず真面目だからなユースタス屋は」 「てめェが不真面目過ぎるだけだろうが」 気に入らないことに男の肩書は室長だ。 部署もその規模も異なるとはいえ、事実上は上司のドレークと同じ位置に立つ。 のらりくらりと社内を散歩している姿ばかりが目につく男だが、それでいて仕事の出来はいいのだから憎らしいことこの上ない。 キッドも室長に次ぐ位置にいるが、どうも肩書ひとつが気になるのは相手がローだからに他ならない。 「ま、少しはブレイクしてもいいんじゃねェか。なに飲みたい」 「珍しく気がきくじゃねェか」 「たまには。で、何にするんだ」 「カフェオレ」 「……めずらし。」 「うっせェ」 普段はブラックで飲むコーヒーも、疲れた頭ではミルクのひとつも混ぜたくなるというものだ。 どうせならカフェオレの方が胃に優しい。 からかわれるのは承知のうえでのオーダーだ。 了解、と鞄を置いて給湯室へ向かうローの背を見送り、キッドは再び画面に目を向けた。 並ぶ数字はこの下半期の景気を反映した難解なもので、キッドの眉間にも皺が寄る。 夏のボーナスは期待できないなと溜息をつき、今日一日の取引のデータを打ち込んでいく。慣れたもので、キーを叩く指の動きは速い。 普段なら部下に任せるような内容だが、この時期特有の流行り病に罹って出勤停止では仕方なかった。 仕事を家に持ち込むのは好きではないし、データの持ち出しも見つかれば面倒なことになる。 何よりドライアイのキッドには長時間パソコンに向かうのは辛いのだ。 「トラファルガー、目薬出してくれるか」 「鞄か?」 「ああ、脇に入ってる」 ちょうどローが戻ってくるのが見えて声をかければ、キッドの手が届く位置にカップを置き、目薬を鞄から取り出してくれた。 手渡してくれるかと思えば、ぷらぷらと振って笑っている。 「さしてやろうか?」 「……断る」 さっさと寄越せ、とローの手から目薬を奪還し、ひとつふたつ目に落とすとローの手に戻した。 「しまえってのかユースタス屋」 キッドの無言の肯定を受けて、いい度胸だと唇を引き攣らせながらローが目薬を鞄に戻し、代わりに自分の鞄を手にした。 ころりとファスナーから転げるように顔を出したのは白熊のキーホルダーだ。ゆらゆらと手足を揺らすそれは、いつだかキッドがゲームセンターで取ってやったものだった。 長持ちするもんだなとキッドが視線を送る前で、ローは黒のコートをはおり、ビジネスマンにしては派手な白地に茶の斑点柄をしたマフラーを巻いてしまう。 「なんだ、帰るのか?」 「ああ。腹も減ったしな」 「また昼抜いたのかてめェ」 「いや、朝も食ってねェ」 「なお悪いだろうがこの馬鹿」 ローとはまだ学生の頃からの付き合いだが、当時から食事を疎かにしてはキッドが叱っていた。 菓子では食事の代わりにならないというのに、なかなか言うことを聞かない男だ。隈が濃くなる一方なのも頷ける。 「またコンビニでスナック菓子買って帰んじゃねェぞ」 「んー、いいや、冷蔵庫になんかあるだろ」 「てめェの冷蔵庫にマトモなもん入ってた試しがねェが」 「はは、誰がおれん家だって言った?」 「あァ?」 「ま、日付変わる前には帰ってこいよ。じゃねェと家に入れねェからな」 「ちょっと待ててめェおれんとこ帰る気か」 「明日は休みだから構わねェだろ。じゃあな、早めに帰ってこいよ」 夜食つくって待っててやる。 言い残したローがひらひらと手を振って出ていくのを呆れ顔で見送り、キッドはひとつ溜息をついた。 本当に男の気まぐれは分からない。 泊まりに来るなら布団干しておいてやるんだったと考えつつ、冷蔵庫の中身を思い出す。 キッドの部下がインフルエンザに罹ったのを受けて、今は他部署にいる元部下のキラーが、万一があってはと大量に食糧を買い込んでくれていた。 それが一昨日のことだったから、一人暮らしには十分すぎるほど溢れ返っている。 ブロッコリーは嫌いだったはずだが、とりあえずローが食べられるものも多々あるだろう。 帰ったらりんごでも剥いてやるか。 器用なくせにりんごの皮だけは剥けない男だ。 結局はローに甘い自分の思考にもう一度溜息をついた後、キッドは傍らに置かれたカップに視線を移し、冷めないうちにと手を伸ばした。 画面に目を戻しながら唇をつけたところでカフェオレの匂いにしては甘い気がするのに気づいたのだが、そのまま流し込んで驚いた。 「っ、カフェオレじゃねェ!」 舌に触ったのはとろりと濃厚な、紛れもなくチョコレートだ。 かすかに鼻を抜けていくなかにアマレットリキュールが混じっている。 甘味を抑えてつくられたそれは確かにキッドの舌に合うものだったが、いったいなんだって、と眉間に皺を寄せたところで気がついた。 というのも、デスクの上に鎮座するカレンダーが目についたからだ。 2月13日、金曜日。 明日、というよりあと二時間で言わずとしれた例の日だ。 「……だからか」 カップの中身はホットチョコレート。 会社にアルコールの類が置いてあるはずはないから、おそらくはローが持参したものだ。 他の部署とはいえ室長だ。室長同士の他愛ない会話で、キッドの部署の人員が足りていないのを知ったのだろう。 ここ三日残業が続いていたから、週末の今日は特にとあたりをつけて、部屋に立ち寄る前に準備していたに違いない。 冷めているように見えて、案外イベント事の好きな男だ。 きっと帰れば夜食にしては豪華な料理が用意されているのだろう。 「……素直じゃねェなァ」 あの馬鹿。 呟いて唇を弛めるキッドが視線を送る窓の向こう。 やけに熱い頬をマフラーで隠し、駅へと急ぐローがいた。 fin.
キャラ崩壊もいいところですねバレンタインなので許してください。 まさかリーマンパロを書くとは思いませんでしたが似合うと思うんですスーツ。二人とも。見た目マフィアになりそうだけど。笑 << Back