2013.05.31 鈴木君が目撃したとある有名人のプロポーズ(青黒♀)




大学の図書館は、一般の利用者もさることながら学生の利用者も高校までの比でなく多い。
大きく設けられた読書スペースから勉強に利用されるパーソナルスペースまで、レポートの提出間近や試験前などはそれこそ埋め尽くされる勢いだ。
けれども中には閑散とした曜日や時間帯も確かに存在するもので、そんなことに限ってよく記憶しているのが人間の性というものである。
今日という日の始まりも、なんでもない偶然から。




今日の講義はみっちり五限まで。
一年の間に取れる単位は取れるだけ取っておけという兄の助言に従ってカリキュラムを詰め込んでみたは良いものの、根があまり真面目でないオレにはいかんせん窮屈すぎた。
後期はなるべく余暇も設けようと必死になってシソーラスと睨めっこしたのだけれど、結局は前期に落とした必修科目が後期は同じ曜日に重なってしまって、一日だけみっちり講義漬けの日が生まれてしまったのである。
代返不可、露見した時点で単位没収なんて科目もあるからたまらない。
ゆうべはうっかりゲームをやりすぎたせいで寝不足だ。
なんで早く寝なかったんだ昨日のオレ、と悔やんでみても時すでに遅く、二限目を終えたところで瞼はだいぶ限界だった。
これは昼飯を食っては三限目は完全に眠ってしまう。
よりにもよって講堂の隅々まで目の届く鬼教授の講義だ。
うっかり居眠りでもしてしまえば提出する課題が一気に三倍になること間違いない。
これから冬休みに向けて提出課題も小テストも増えるというのに、そんな事態に陥りたくはなかった。

「あれ、どこ行くんだよ鈴木」
「べーんじょ」

二限を共にしたバスケサークルの悪友、佐藤とは高校から数えてもう四年目の付き合いだ。
あちらもなかなかのサボリ癖があって、自分と同じく前期でずいぶんと単位を落としていた。
そのため結局講義が重なることになって、常ならば今日の二限を終えた後は食堂へ行くのがお決まりの流れだったのだが。
ひらひらと手を振って、告げた目的地とは正反対の方向へ足を進めれば、付き合いの長さも手伝って何をしたいかが知れたらしい。
寝過ごすなよー、と実に的確な忠告が背を追ってきた。


◇ ◇ ◇


週の真ん中、水曜日。
いつもは昼休みでも何かと人の多い図書館だが、水曜の昼だけはやけに人が少ないのを知っていた。
原因のひとつは、若くて美人な司書が定休を取って、代わりに無愛想なおっさんが窓口に入るからだと踏んでいる。
図書館の入り口にあるわずらわしい出入数管理のバーを抜けて、ちらとも視線をよこさないおっさんの前を通り過ぎる。
読書スペースはもちろん、館内にすら人はまばらで、パーソナルスペースに至っては人っ子一人いない。
これはいつにも増して閑散としたな、と内心肩を竦めながら、パーソナルスペースの奥へと歩を進めた。

夏も冬も本のために一定の温度に保たれた心地良い空間の、更に心地良い場所。
冬にはありがたいぽかぽかとした陽射しを独り占めできるたった一席が、入り口からは死角になる場所に存在していた。
知っているのは図書館をよく利用する生徒だけだ。それもサボリ目的に限る。
あんな心地良い場所にいて、眠らずにいられるわけがないからだ。

ただ、一人だけ、あの場所にいても眠らずに読書のできる人物を知っている。
水色の髪をした、透明感がありすぎて影の薄い、けれど可愛らしい顔立ちをした彼女。
広い講堂で行われる必修科目、隣の席に座ったのはたまたまのこと。
まだまだ春の始まりで、サークルにだって本所属しないうちの頃。
教授が急用で講義が宙ぶらりんになった後、せっかくだからと話しかけてみたのが始まりだ。
表情があまり変わらないからなんとなくとっつきにくそうなイメージを抱いていたのだけれど、ころころと鈴の鳴るような澄んだ声は耳に心地良く、話してみれば見た目に反してずいぶん男前で、ついでにユーモラスな性格をしていた。
高校まではバスケ部のマネージャーをしていたこと、彼女自身もとてもスポーツをやるようには見えない細身なのに、バスケをすること。
大学のバスケサークルでも、マネージャーを続けようか迷っていること。
自分はバスケサークルに所属することをすでに決めていたから、一も二もなく彼女を誘ったのだ。
前期に落としかけた単位のひとつを彼女のノートに救われたのも、エピソードのひとつに欠かせない。
同じサークルに所属しているだけでなく、異性として気になっている相手だから、話すチャンスは逃さぬように心掛けていた。
本が好きな彼女は、よくこの図書館の、その特等席で本を読んでいる。
やわらかな陽射しに綺麗な髪がきらきらとよりいっそう美しく見えて、まるで絵画のようだと思ったのは決して惚れた欲目ではないはずだ。
影が薄いからこそあまり気付かれない、なんて彼女は言っているけれど、気付く奴は気付く。学内にだって彼女を狙っている奴は案外多い。
誰かと付き合っている様子はないけれど、サークル同士の練習試合やストリートの大会なんかに行くと、決まって彼女に声を掛けてくる奴らがいるくらいだ。
中には有名大学のバスケ部に所属しているような、高校時代から名前の知れていたプレイヤーなんかも多くて、いったいどういう繋がりなんだと勘ぐってしまう。
そういえばもう一年近い付き合いになるのに、彼女の出身校すら聞いていなかったな。今度聞こう。

つらつらとまとまらない思考回路は眠い証拠だ。
三限で眠ってしまうよりは、昼食を犠牲にしてでも睡眠に充てたい。
そう思ってこの場所へ足を運んだのだが―――……


(あれ、先客……って、は!?)


入り口からは席自体が死角になっているうえ、パーソナルスペースである机はそれぞれパーテーションで区切られているから人がいることに気が付かなかったのは仕方ない。
とはいえよくこの馬鹿でかい身体に気付かずに―――、というより、なんだってこの男がここにいるのだ。
自分の記憶が正しければ、今まさに着こうとしていた席で眠っている男は、ちょっとでもバスケを齧っていれば誰でも知っているような有名人だ。
けれどここの学生ではない。
そのうえ確か、アメリカとの親善試合がどうとかで、渡米しているとかなんとか雑誌で見た覚えがあるのは気のせいか。テレビでも言っていたような気がするが。
大学一年にはとても見えない高い背に、鍛えられた身体、野性めいた色気。
ワイルドに整った顔立ちに卓越したバスケの技術は、女に騒がれるのに苦労しない。
JBLはもちろんNBAからも注目されていると専らの噂だ。
非公式の試合でプロを相手に勝利したなんて話も聞こえている。
高校を卒業してからは芸能活動に専念し、俳優にバラエティにと人気爆発中の黄瀬涼太と中学来の友人(本人は友人なんて鳥肌が立つと豪語する)であることも知られていて、バスケ雑誌は愚か黄瀬と一緒に女性誌のグラビアまで飾ったことがある、黄瀬とは方向が違うながらも派手な男。

―――――青峰大輝。

それが彼の名前だ。
高校バスケ界の生ける伝説を、今なお紡ぎ続けている男。
彼とその周りのプレイヤー達のおかげで、自分の高校バスケ人生は正に群雄割拠と言える時代だった。
正直あまり強くはない高校だったから彼と直接対峙する機会には恵まれなかったけど、彼と、そして彼のかつての仲間である「キセキの世代」のぶつかり合う試合は、見ていて毎回血が騒いだ。
あんな風に身体が動いたなら、あんなに速くコートを駆け抜けることができたなら。
男なら幾つになったって胸の中にヒーローを抱えているもので、彼は正にそんな憧れのヒーローそのものだったのだ。
彼とキセキの世代を語るにもう一人欠かせないのは、火神大我。高校一年のとき、青峰を負かした相手だ。
あの冬を境に、腐っていた青峰がまた楽しそうにバスケをするようになったのは、彼のファンの間では有名な話。
まったく関係ないはずの自分だってじんと熱く胸に響いた試合だったのだから、当事者や本人にとっては尚更だろう。
青峰と火神は、大学バスケ界でも良きライバル関係を保ち続けている。

競技としてのバスケは引退してしまった自分でも、彼らの試合を見ると全力でぶつかりたくなってしまう。
観る者を熱くさせるスター性を持った彼らは、日本のバスケット界の宝だという声が高い。
本人たちには、まるでその自覚がないみたいだけれど。
高校を卒業してもバスケを続けているキセキの世代は青峰一人。あとはそれぞれに、自分の道を歩き出した。
けれどときどきストバスの大会なんかで勢揃いして場を沸かせ、当然のように優勝を掻っ攫っていく、台風のような彼ら。
まるで手の届かない存在だと思っていたけれど、年相応におちゃめなところもあるようだ。
大規模な大会はもうスケジュールを終えてしまったから、次はテレビ中継の予定されているアメリカとの親善試合まで見る機会はないかと思っていたのだが。

(なんだってこんなとこで寝てんだよ…!)

すやすやと穏やかな寝息を紡いで、さっぱり起きる気配がない。
どうやって忍び込んだのだか、いや、考えてみれば一般利用者も立ち入り可能な図書館であるからこそこの場にいるのか。
誰か彼の知り合いでもこの大学に通っているのだろうか。
バスケサークルに彼の知り合いでありそうな人間は―――いや、いない。どう思い出しても全国区のプレイヤーはいない。
彼の出身校である桐皇を出た先輩もいないし、キセキの世代やら火神大我と知り合いそうな同輩もいない。
ならどうしてこんなところに、

「青峰君」
「ッ」

淀みなく流れていた思考を遠慮なくぶった切って、あらぬ方向から突然聞こえた声にビクリと肩が跳ねる。
反射的に本棚の影に身を隠してしまうのは、何かこう、未知のものから逃れるための人間の本能とでも呼ぶべきものかもしれない。
けれどそうしてから感じたのは、強烈なデジャヴ。未知のもの、なんかじゃない。
こんなことは大学に入ってからもう何度も経験してきていて―――、そうだ、あれは。
その答えに思い至るよりも先に、ぐっすりと寝入っていたはずの青峰が唐突にむくりと起き上がった。
起き上がったとは言っても上体は伏せたまま顔だけを上げて、目をしぱしぱと瞬いている。
ついでに、人一倍大柄なくせにどことなく小動物を思わせる仕草でこすこすと目尻を擦っていた。
眠たげに開かれた深い紺色の双眸は、迷うことなく彼の左斜め前方へと向かう。

「おー…はよ、ただいまテツ…」

むにゃむにゃと、せっかくの野性味が台無しになりそうな口調は、それでも低い美声が上方修正してくれる。
子どもじみた起き抜けの仕草に反してたっぷりと色気を含んだ声は反則だ。
同じ男だというのについうっかり赤面してしまうではないか。
けれど今の突っ込みどころはそこじゃない。
そう、さっき感じた強烈なデジャヴは、自分がいま想いを寄せている彼女に特有の現象で―――、しかも青峰は今確かに、彼女の名前を呼ばなかったか。
それもものすごく甘ったるく、親しげというより愛おしげに。ついでに、ただいまとか、なんとか。

(え、嘘だろ、テツ……って、黒子さん!?)

信じられない、どうか間違いであってくれと目を見開いてあちら側を覗く瞬間、聞こえてきた声に絶望する。

「おはようございます、おかえりなさい。…ふふ、前髪、寝癖ついてますよ」
「ん…」

聞き間違えるはずがない。聞き心地の良いあの澄んだ声は、黒子さん以外に知らない。
でも、いつも人あたりのやわらかな彼女だけれど、あんなに愛しさを含んだ声は初めて聞いた。
これはやっぱり、ひょっとするとひょっとするのか。いやそんなまさかまだ信じない、この目で確かめるまでは。
あの研ぎ澄まされた野獣のような青峰大輝と妖精か天使かと見紛うほどの儚い系美少女が恋仲だなんて。
自ら次々と死亡フラグを立てている気がしないでもないが、野次馬根性を捨てきれないままそろり、本棚の影からめいっぱい首を伸ばして「例のあの席」を窺う。
そうしてやっぱり、絶望した。

「寝癖が付いている」の指摘どおり、ぴん、と一か所跳ねた青峰の短い前髪。
それを愛しそうに撫でる白くて細い指先にはいやというほど見覚えがある。
綺麗な手だな、白魚のようなってこんなときに使うのかな、なんて、似合わないことを何度も頭に浮かべたりしたから間違うはずもない。黒子さんの手だ。
さらさらと優しく撫でるその手に青峰は心地よさそうに目を細め、ネコ科の動物を思わせる様子で自らもまた擦りよるよう。
え、え、なんだほんとにこの熟年夫婦のようなやり取りは。
しかもあの良く言えば強面、正直言えば凶悪面のヒーロー青峰が可愛く見えるだなんてそんなはず。
一頻り撫でると、黒子さんは青峰との間を仕切るパーテーションを動かし(ゼミで使ったりもするので、席毎自由に仕切りの位置を変えられる)、彼の正面に腰を下ろした。
一瞬覗いた小柄な彼女の姿はすぐに横を仕切るパーテーションの向こう側に隠れてしまうけれど、しっかりと身を起こし、頭ひとつかふたつかみっつ飛び出した青峰は表情まで窺える。
それがものすごくデレデレしている、のはなんだかもう悪い夢とでも思いたい。

「あー…やっぱいいな、これ」
「はい?」
「また毎朝こうやってテツが起こしてくれるかと思うと」
「…キミ、いつもボクが起きるより早く起きてロードワークに行っちゃうでしょう?」
「テツの寝顔はオレのもーんー」
「ばかですか」

恥ずかしいこと言わないでください、と拗ねた声が聞こえて、緩く握られた拳がぽかり、青峰の額に炸裂する。
けれどそれも正に「形だけ」と言わんばかりの力のなさで、青峰はますます脂下がっているからもう見ていられない。
なんだろうこの、気になっていた異性に恋人がいた事実(しかもどうやら同棲しているくさい)と、憧れのヒーロー像(彼女がいないはずはないと思ってたけどよりにもよって黒子さんだなんて聞いてないオレは聞いてない)がガラガラと音を立てて崩れていく様に、二ついっぺんに失恋した気分だ。

「ふあ…」
「ふふ、見事に時差ボケしてますね。フライトを終えたばっかりで、疲れてるでしょう?お家にいてくれて良かったのに」
「テツ、家でオレが寝てたら起こさねーだろ。おまえに会いてえから早く帰ってきたのに、ただいまって言えねえじゃん。それとも彼氏のお迎えじゃ不満かよ」
「可愛いこと言いながら拗ねないでください。ボクだってキミがいない間淋しかったんですから」
「……なんかテツが素直で股間がやべえ」
「いますぐ気絶しますか」
「いえ、遠慮します…」


そうだよな、アメリカ行ってたんだもんな。話の流れからすると空港から直行みたいだし、時差ボケも疲れもあるよな…。にしてもだ。

何やら(主に下半身が)不穏な気配を覗かせたかと思えばぴしゃりとやられてすごすご引き下がるから、あんた本当に青峰大輝かと肩を揺さぶって問い質したくなるのを必死で堪える。
こんなところで盗み聞きしているのが知られたらきっと、明日は東京湾か道頓堀か。江戸川あたりに捨てられたらどうしよう。
我ながらなかなかリアルな想像をしてしまって思わずヒッと喉が引き攣る。
声を上げたら気付かれる、と両手で口元を覆ってびたりと本棚に張り付き、気配を殺す。
通りがかった司書のおっさんが奇妙な物を見るような目つきで眉をひそめてたけど知らない、放っとけ、オレは空気だ。

「…アメリカは、どうでした」

穏やかな黒子さんの声が聞こえて、その声の優しさにぎゅっと胸を掴まれる。
こんな声で名前を呼ばれたかったなぁ、なんて、そんなこと決して思ってない。

「凄かった。街も人もでけえのなんのって。縦にも横にも」
「素直なのは美徳ですけど、キミはもうちょっと遠慮が必要ですね」
「仕方ねえだろ、見たまんまだ。あと、試合会場にも行ったんだけどよ。親善試合に出る奴らと、他の奴らが練習してて。その中の一人に日本人でもダンクできんのかって挑発されてアタマきたから、あからさまに手抜きしてやがるディフェンスぶち抜いてダンク決めてやったら、……あっちの監督がすげえ、手放しで喜んでくれて」
「はい」
「ガイジンてなんでもオーバーアクションだと思ってたけど、違ぇんだよ。いい歳したおっさんなのに、なんつーの、目ぇキラッキラさせてガキみてえで、すげえすげえってオレでもわかる単語繰り返して、頭撫でて肩叩いて、恥ずかしいくらい褒められて」
「はい」
「本場のバスケだってなんべんも見てるだろうによ。オレのバスケで喜んでくれて…、挑発した奴も、オレがこういう性格だってのわかっててやったみてえで。試合が楽しみだって……なんかすげえ、嬉しかった」

最後には俯いてぽつりと零すように言った青峰の頭に、また白い手が伸びる。
今度は拳を握ってはいなくて、幼子を褒めるような優しい手つきで黒子さんが青峰の頭を撫でている。
さっきの起き抜けのときとはまた違う、なんか青峰泣きそうかも、なんて思ったけど、たぶん気のせい。ヒーローは簡単には泣かないって母ちゃん言ってた。
あ、でも、嬉しいときには泣くんだとも言ってたかも。

「久しぶりだったでしょう、楽しみだ、なんて肩並べられるの」
「……ん」
「キミの才能が開花してから…、そんな風に言ってくれる人、決して多くはなかったですからね。…火神君くらいですか、例外なのは」
「……おう」
「練習は?参加させてもらったんですか?」
「した」
「…どうでした?」
「……すげえ、楽しかった。火神くれえ飛ぶのとか、ゴール下で紫原みてえな圧出すやつとか、普通にいて。パワーで押し負けるとか久しぶりで」
「……結果は?」
「ギリッギリ、オレがいた方が勝った」
「…そうですか」

おめでとうございます、お疲れさまでした。
今は顔は見えないけど、たまに見せてくれる、黒子さんのふんわりと表情に乗せる笑顔が目に浮かぶ。
可愛いな、もっと見せてくれないかなって思ってた表情だけど、たぶん青峰に見せる表情はあれよりずっと可愛いんだろう。
だって青峰の目もとがちょっと赤く染まってる。泣いたからとかじゃなくて。照れで。黒いから分かりにくいけど。

「バスケ、楽しいでしょう」
「ん。楽しい。やっぱすげえ、楽しいわ」
「バスケを楽しんでるキミのプレイは、キラキラしてて眩しくって、お日さまみたいなんですよ。だからみんなが惹かれるんです。キミ、そんな自覚ないでしょう?」
「……どっちが恥ずかしいこと言ってんだって…いてッ、バカ、耳引っ張んなよ悪かった」
「ボクは、キミがもう一度バスケを楽しめるようになってくれたことが本当に嬉しいんです。…ちょっと人相は悪くなっちゃいましたけど、楽しそうに笑ってると、ピュア峰君が帰ってきますもんね」
「ピュア峰言うな」

今度は青峰が手を伸ばしている。ちょっとだけ腕が揺れたから、たぶんデコピンでもしたんだろう。
痛いです、と少しだけむくれた黒子さんの声が聞こえる。
ピュア峰ってのは青峰大輝、その輝かしい歴史の始まりでもある中学時代を指す、いわばファンの間でのあだ名みたいなものだ。
やさぐれてしまうまではほんとにバスケ大好きキラキラ少年だったから、そりゃもう笑顔が眩しかった。らしい。残念だけどオレは見たことがない。
でもときどき青峰が見せる心底楽しそうな笑顔は、女子じゃなくても「ギャップ萌え」なんてものが理解できる破壊力だから、四六時中あんなだったら大変だろうな。主に周りの人間の心臓が。
あれ、っていうか黒子さん、そんなに前から青峰と知り合いなんだ。…今度、こっそり訊いてみよう。もしかしたらもっと痛手を負うかもしれないけど。
女々しいとか言うな、割り込む余地ないなって思っても想い寄せるくらいはいいだろ。この傷が癒えるまでだけだから!

「親善試合、生中継だそうですね。楽しみです」
「チケット、用意すんぞ?」
「魅力的なお誘いですけど、やっぱり、学生の身の丈には現地観戦は合いませんから」
「オレがテツに見てほしいって言ってもか?」
「…その訊き方はずるいですね。さては赤司君の入れ知恵ですか」
「ち、バレたか」

ひょい、と肩を竦めて、青峰はぼりぼりと後ろ頭を掻いている。
アカシ、というのはひょっとして例のあの人だろうか。キセキの世代キャプテンの。いや他に考えられないけれど。
それにしても驚くべきはやはり黒子さんである。
青峰と付き合ってるくらいだし、もしかしてあのへん全部と仲が良いんじゃ、なんて思えてくる。
一体彼女は何者なんだ、なんて、趣味が良いとは言えない好奇心まで頭をもたげてくるから厄介だ。
なんだろう、失恋確定した途端にこの好奇心。オレって実はストーカー気質だったのかな。意地でも認めたくない。

「今回はテレビの前で応援しますけど。…キミがいつかアメリカに渡って、NBAデビューするときには、文字通り飛んで行きますから」

そのときには、ちゃんと教えてくださいね。
ほんの少しだけ淋しさを含んだ、けれどそれより、輝かしく続くだろう青峰の未来になんの疑いも持っていない黒子さんの力強い声。
憎たらしいくらい愛されてんな、と日本バスケ界、いや将来的には本場アメリカバスケ界にも名を残すだろう青峰の、その反応はと言えば。

(おいおいおい、なんだその顔…!)

きょとん、と目を見開いて、その心情を文字にするなら正に「なに言ってんだオマエ」とでも言いたげな表情だ。
黒子さんはおまえのNBA入りが近い将来実現されると信じて応援に行くとまで言ってくれてるってのになんでそんなに反応が薄いんだ、と部外者であるはずのこちらが苛立ってしまいそう。
自分だったら泣いて喜ぶところだぞそこ、と盛大に突っ込むのと我慢するところへ、青峰の眉がぎゅっと寄せられた。
今度は「不満です」の一言がでかでかと顔に書いてある。

「つーかよ、テツ」
「はい」
「オレがいずれ向こう行くのは当然として。なんでそこにおまえがいねえんだよ」
「…はい?」
「オレの人生、テツが隣にいねえとか考えらんねえんだけど」
「……あの、ちょっと、青峰君」

何 を 言 い 出 す ん だ 青 峰 大 輝 。

いま、黒子さんとオレの心はひとつだ。ちょっと嬉し…いや嬉しくない。こんなことでひとつになっても。
たぶん、いや確実に、こんなところで言うべきじゃないことを青峰は言おうとしているに違いない。
さっきまでのむっすり顔からちょっとだけ困ったような表情に変わっているから、本人も「マズった」くらいの自覚はあるのかもしれない。
それでもオレの知る限りの青峰は思い立ったが吉日型、こんなところで唐突に話を切ったりはしないだろう。
わずかな間視線を宙にさまよわせて、それからしっかりと真っ直ぐ黒子さんに目を向ける。
その真剣な眼差しに、思わずゴクリと息を飲んだ。

「…おまえ、オレが自分で諦めちまってたのに、おまえはオレのこと絶対諦めなかったろ」
「は……、い、」
「火神まで捕まえてきて。…また、オレがバスケ楽しめるようにしてくれただろ」
「…青峰く、」
「さっきも言ったけど。楽しいんだよ。やっぱすげえ、バスケ楽しい。……でもそれって、テツがオレのそばにいてくれるからだって、おまえちゃんと知ってたか」
「あお、」
「朝起きたらテツがいて。おはようっつってメシ食って。ガッコは違ぇけど、家帰ったらまたテツがいて。試合も応援来てくれるし…ときどき火神の応援してんのは気に入らねえけど」

はあっと青峰が大きく息を吐き出す。
黒子さんは相変わらずパーテーションの向こうで見えない。
けど、小さく聞こえてた相槌も聞こえなくなったから、きっともう言葉にもならないんだろうってことくらいはわかった。
見えている青峰の表情は真剣な中にもどうしようもなく、「愛しい」って気持ちが溢れている。
守るべき人とか、大切にしたい人がいる男って、きっとこういう顔をするんだろう。…悔しいけど、敵わない。

「正直先のことなんか考えんの面倒臭ぇし、ガラじゃねえし、だからおまえにもさんざん馬鹿だ馬鹿だって言われてっけど。馬鹿は馬鹿なりに、おまえとのことだけは考えてんだよ」
「…っ」
「すぐに来い、とは言えねえ。…でも、テツのことちゃんと守れる自信ついたら、あっちに呼ぶから。そしたらアメリカ来て、オレのガキ産んで、そんで一生、オレの隣で笑っててくれよ」

そしたらずっと、頑張れるから。

言い切った青峰が浮かべた笑顔はきっと、本当なら黒子さん以外見ちゃいけなかったんだろう。
盗み見ちゃってゴメン、と心の中で詫びる。
青峰ってあんなに柔らかい表情できたんだ、なんてそんなことを思ってしまうくらい、普段の青峰からは想像できないような優しい表情だった。
きっと、黒子さんのためだけの特別だ。

「っふ…、ぅ、……っ」

小さく小さく、押し殺した泣き声が聞こえて、ぎゅっと胸が締め付けられた。
どんな状況下であれ自分の好きな子が泣いてるってのは胸に刺さるものがある。
それが例え、他の男のために流された涙であってもだ。

「テーツ、」
「…っ、なんっ、なんで…っ、なんでこんなとこで、そんなこと言っちゃうんですか、青峰君のばか…!」
「テツ」
「ボ、ボクだって女の子なんですから…っ、こ、こういうことのシチュエーションには、憧れくらい…っ、ふ、ぅ…っ、だからキミはっ、アホ峰とか、言われ…っ」
「あー…だよなあ、ワリィ。でもなんかもう、言いたくなったら止まんなかった」

だから許せよ。
しょうがねえだろ、とねだる声で、青峰が再び黒子さんへと手を伸ばす。
指先は見えないけど、らしくない優しい仕草で黒子さんの涙を拭ってあげたりしてるんだろう。見なくてもわかる。
ヒーローってのは泣いてる女性には優しいものだ。特にその相手が、物語のヒロインであるなら尚更。
…プロポーズのシチュエーションまでは気を配れなかったあたりが、青峰らしいといえば実に青峰らしいけど。

「ふぇ、っぅ、あおみねく、のばか…っ」
「ハイハイ、悪かった。オレが悪かったから泣くなよ、泣くなって。テーツ、可愛いから困る」

すっかり甘やかしモードの青峰に、いつものクールっぷりはどこへいったのか、声音だけでもくるくると表情を変えているのがわかる黒子さん。
きっと泣いてる顔もたまらなく可愛いんだろうけど、見たら命がない気がする。色んな意味で。
いつから一緒にいるのかわからないけれど、こんなに当たり前に一生の約束をねだれてしまうなんて、本当に自分が入り込む隙間なんて微塵もなかったな、と再確認。
ほう、と小さく、けれど深い溜息をひとつ。
「お幸せに」の一言は、悔しいから胸の中でだけ。
ところで、なあ、返事は?なんて、微塵も断られる気がないつもりで訊いてる青峰の甘ったるい声を背に、オレはそっと図書館を後にした。


◇ ◇ ◇


気が付けば三限開始20分前。
そろそろ席取りをしないと、せめて確保したい後ろの席がいっぱいになってしまう。講堂の席取りは戦争だ。
結局眠れもしなければメシも食えなかったうえに失恋までしてしまったから散々な昼休みだったわけだけれど、なんだろうな、胸がぽかぽか温かい。
気持ち的にはもう「おなかいっぱい」といったところだったが、いかんせん物理的には腹が減る。
碌なものは残っていないだろうがひとまず売店に行ってみるか、と方向転換したところへ、

「あれ、鈴木!?なんだよ、寝てくるんじゃなかったのか?」

聞こえてきた聞き慣れ過ぎた声に振り返る。案の定佐藤の姿があった。
ぱたぱたと小走りで近寄ってくる様は、この四年でずいぶん見慣れたものだ。
なんかあったのか、と訊ねられて、ぽりぽりとこめかみのあたりを掻いてみる。

「あ?あ―――、……なんか、失恋した」
「はあ?」

唐突な失恋報告に眉を寄せた佐藤がどういうことだと続きを促す。
失恋なんていつもならカッコ悪くて話せたもんじゃないけれど、今日はどうにも話したい気分。

「…すっげー幸せそうなカップル見ちゃってさ。女の子の方、オレの好きな子だったんだけど、ショックっつーよりもう、お幸せにって感じでなんか、」

幸せってああいう形してんだろなぁ、って。

自分でも恥ずかしいこと言った自覚はあった。
笑われっかなあ、と思ってハハハと空笑いを貼り付けながら佐藤に向き直ってみれば、「仕方ねえな」とでも言いたげな、なんだかこっちがくすぐったくなるような表情を浮かべてくれている。
あれ、その反応はちょっと予想してなかった。
でもそういえばそうだ、それなりに長い付き合いになる佐藤は人をからかうのが好きな一面もあったけれど、大事なことを茶化したりするような奴じゃなかった。
だからこそ今でもこうして付き合いがあると言っても過言じゃない。

「…よーし、わかった、今からパーッと遊びに行こうぜ!あそこの駄菓子屋!瓶コーラで乾杯な」

ぱん、と手を叩いた後、クイ、とまるで酒でも煽るような調子で手首を動かしてみせる。
まだ未成年だからこんなときでも飲酒をするわけにはいかなくて、代わりにコーラというわけだ。
せめて泡立ち麦茶とか、ノンアルコールビールだとか、そういう気分の出るものはないんだろうか。苦いのキライだけど。
ああそっか、だからコーラなのか。納得した。
このなんとも言えない気持ちを汲み取ってくれた佐藤の精一杯の温情に、ぷは、と笑ってオレは答える。

「バーカ、コーラじゃ寒いだろ。今の季節はブタメンだブタメン!」

おまえの奢りな、なんでだよ、の軽口の応酬に笑いつつ、ありがとな、と胸の中で呟いた。
あんなに出ようと頑張っていたはずの3限はサボリ決定だ。
後の追加のレポートやら手に入らないかもしれないレジュメやらの懸念事項はあるけれど、この際だから放っておこう。
授業放棄の罪悪感がちょっぴり、解放感がたっぷり、それから、―――失恋の淋しさが、ほんの少し。

青春真っ盛り、女じゃないけど花の19歳。
この冬空の下駆け出して、高校生のとき、放課後よく通った駄菓子屋でやけ食いして、やけ飲みして。
夕陽に向かってバカヤローなんて叫んでちょっぴり泣いてみたりして。


それからあの二人の幸せを、心から祈ってみたりなんか、するんだ。





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