2012.05.12  045.囁かれた言葉  帝光中シャワールームにて




週末。
大会に向けた調整を兼ねて組まれた他校との練習試合を終え、学校に戻った後である。
解散の号令を受けてほとんどのメンバーが帰路に着くなか、黒子は一人、体育館へと足を向けた。
フル出場でなかったとはいえ試合の疲れは残っていたし、すぐにでも練習をしたくなるような、そんな劇的な感動があったわけでもない。
ただなんとなく、もう少しボールに触れていたかっただけだ。

途中、忘れ物をしたと戻ってきた青峰が加わって、いつもと同じように二人で練習した。
練習とは言っても、ほとんどは黒子が青峰に教わる形であったのだが。
黒子がまだ三軍にいたころに確立された放課後の練習は、レギュラー入りした今でもその形をあまり変えていない。
案外律儀な性格の青峰は、なかなかに教え上手だ。アドバイスがあまりに抽象的であるのが玉に瑕だが。
今日も今日とて、いつのまにやらすっかり月が昇る時間である。
学校に戻ってきたのが既に夕刻近い時間だったから、当然と言えば当然だろうか。
いくらなんでも試合の後にこなす運動量ではないと制止を入れたのは青峰の方で、受け入れた黒子がシャワー室の鍵を借りに行った。
自分はすっかり汗だくだというのに青峰の方は涼しい顔をしているのがなんとなく悔しくて、膝をかくんとしてやったのは黒子の愛嬌だ。
当然ながら仕返しに遭い、極められたヘッドロックに首をかくかくとさせながら廊下を歩いたのが笑い話。
常駐の警備員は学内巡回に出た後だったのか留守にしていたから、ちゃっかり無断で鍵を失敬したのは余談である。

一日の出来事をつらつらと思い返しながら、黒子は目を閉じて湯に打たれていた。
試合のこと、練習のこと、週が明けてからの学校のこと――…、ほとんどがバスケットに関することだったけれど、ひとつだけ。
青峰のことを考えると、途端に心臓が落ち着きを失くすのには困った。

放課後に知り合ったあの日に築いた友人という関係が形を変えたのは、黒子がレギュラー入りする少し前のことだ。
きっかけがどちらにあったのかはもう覚えていない。
ただ、好きだと言ってくれた青峰の声と、抱きしめられた腕の強さだけは今も鮮明に覚えている。
思い出せば勝手にあの声が耳の奥に蘇って、ぞくりと背を走った感覚に黒子は内心舌を打った。
日々の学校生活や、練習や試合のときはいい。
けれどそんな日常を離れ、青峰と二人きりになった途端に黒子の心臓は騒ぎだすのだ。
自分を呼ぶときのどこか甘さを含んだ声、鋭いはずの視線が柔らかくなる瞬間、魅力的な笑顔。
黒子だけしか知らない表情が、きっとそのなかに含まれている。
―――反対に、青峰だけが知っている黒子の表情もあるけれど。

(……いけない、ボクはなにを――…)

思考が勝手に流れ始めたのにはっと我に返って、黒子はふるふると頭を振った。
ジュースを買いに行くと言った青峰は、そう時間をかけずに戻るだろう。
このままでは顔を合わせられない。あの青い目に見透かされてしまいそうだ。
ふう、と長く息を吐き、俯いていた顔を上げようとしたところで、黒子は違和感に気づいた。
薄っすらと目を開けると、自分より頭ひとつ大きい影が重なるように増えている。
次いで見えたのは、壁に突かれた大きな手だ。それもまた、影と同じく黒子の背後から伸びている。
シャワーの音も排水溝に吸い込まれていく水の量も変わらないのに、湯が肌を打つ感覚がなくなったのは、自分よりも背が高い彼にそれが当たっているからだろう。
誰、なんて考えずとも一人しかいないのだが、またかと嘆息くらいはしたくなる。
確かに鍵はかけていなかったが、扉を開閉する音はシャワーの水音に上手く紛れさせたらしい。
気配を消して近づくのは自分の得意技だというのに、こんなときばかりは彼もまたそれを使いこなすのだ。

「…どうしたんですか、青峰くん」
「あんまり遅ェから、テツがのぼせてんじゃねえかと思って」

平静を装って声をかければ、白々しい言葉が返った。
そんな心配など欠片もしていなかっただろうに、声色ばかりは変えてみせるのが憎らしい。
振り返った先、黒子を見下ろす青峰はニィと唇の端を吊り上げていて、先ほどの台詞を綺麗に裏切っていた。
濡れた髪から滴る雫と、首から鎖骨へ伝っていく湯の筋が男らしさを際立たせて、逆光に翳る表情は多分に艶を含んでいる。
思わず目を奪われて、けれど自然を装って黒子はわずかに視線を逸らした。
170cmに満たない黒子と190cmを超える青峰とでは、それに比例して体格にも明確な差がある。
背後から覆い被さるようにされると、黒子の身体はすっぽりとその腕の中に収まってしまう。
事実、青峰の作った檻に囚われて、今の黒子は身動きが取れない。落ち着かない。

「またジャージ濡らして。桃井さんに叱られますよ」
「洗濯なんざ三軍にやらせときゃいいのに、さつきの奴が出しゃばるからだろ」
「……ボクも三軍にいた頃は君のユニフォームやらジャージやらの洗濯をしてたんですけどね」
「っとに、惜しいことしてたな。洗いたてのユニ、おまえが手渡してくれりゃ良かったのに」
「御免被ります」
「冷てェな」

にべもない黒子の返事にも面白そうにくつくつと笑う、青峰の機嫌は上々だ。
今日の試合内容には満足していたようだから、きっとそのせいもあるだろう。
自分が楽しんだ試合の後は、長ければ一週間はその上機嫌が続くほど燃費の良い男なのだ。
ただその間、いつもよりスキンシップが過剰になるのが頭の悩ませどころなのだけれど。
ちゅ、と小さく後頭部に口づけられたのが分かって、黒子はくすぐったくて笑った。

「…もう、出ますから。シャワー止めてください。さっさと着替えないと風邪ひきますよ」
「ん〜?」
「ちょッ、青峰く…ッ」

するりと浅黒く大きな青峰の手が、黒子の白い肌を滑り落ちた。
機嫌の良い様子に油断してはいたものの、態度にはまるでそんな色など滲ませていなかったくせにと呪ってみてももう遅い。
シャワールームに乱入した時点で、ただで黒子を解放する気などさらさらなかった青峰だ。
首筋に唇を落としながら、指先は胸の真ん中を通って臍をくすぐり、弱い脇腹を撫でて腰骨のあたりを何度も摩る。
弱いところを次々暴かれて、降り注ぐ湯が青峰から黒子に移り、肌を伝っていく感覚さえ違うものにすり替わって、黒子は小さく身を震わせた。
無論、それを見逃してくれるほど青峰は甘くない。

「ッあお…!」
「気づいてねェと思うなよ、テツ」

不穏な台詞が、刹那。
ぐい、と背後から割り込んだ片脚に無理やり脚を開かれて、慌てて青峰を振り仰ぐ。
その途端、唇を塞がれた。

「ん、……ッン、ぅ」

傍若無人な舌が好き勝手荒らしていく。
とがらせた舌先で口蓋をくすぐり、舌と舌を触れ合わせては強く吸う。
乱暴なくせにひどく甘い、呼吸まで奪うような濃厚な口づけに、早くも黒子の息が上がり始めた。
ただでさえシャワーの湯気で酸素は薄く、それでなくとも苦しい体勢だというのに。

「ァ……」

ようやく解放されるころには、すっかり背後の青峰に体重を預ける形で脱力した黒子である。
力の入らないその身体を危うげなく抱きかかえながら、青峰は黒子の肌に無遠慮に視線を投げた。

「…おまえだけ裸、ってのはいいな。なんつーの?背徳感?すげえそそられる」
「あお、みねくん!」
「シー……、あんまでけェ声出すと、外に聞こえちまうぜ」

今はシャワーの音のが響くから大丈夫だろうけどな、と意地悪く笑われて、反射的に唇を噛んだ黒子が恨めしげに青峰を見遣る。
タチの悪い台詞を吐いてくれるものだ。万が一にも見つかったら、どう言い繕うつもりなのか。
そんな黒子の心中を知ってか知らずか、青峰は的外れな方向で眉を寄せた。

「ばか、噛むなって。傷つくだろ」

ぺろりと唇を舐めていく舌と、黒子を懐柔するような表情がずるい。
いつもは見せない、眉を下げた少し情けない表情に黒子が弱いのを、青峰は理解している。
それを惜しげもなく武器として使うから、黒子はいつまで経っても青峰に敵わないのだ。
諦めたように小さく息を吐き出せば、満足したらしい青峰にぎゅうと抱きしめられた。

「…ジャージ、濡れてるからごわごわします」
「なんだ、オレにも脱げっつってんの?」

せめてもと可愛げのない台詞を口にしてみるけれど、青峰の機嫌は上向くばかりだ。
ついでに寄越された碌でもない台詞に、半分は本気で、半分は照れ隠しで青峰の爪先を踏んでやった。
いて、と形ばかりの文句を口にする声が笑っている。
それが気に入らなくて抱きしめる腕を抓ってやれば、「悪い悪い」とまるで心のこもらない言葉が降ってきた。

「…青峰くん!」
「わーかったって」

オレが悪かったから怒るな、と肩口にすりすりと額を擦り付けるのは、黒子の機嫌を取りたいときの青峰の癖だ。
躾のなっていない大型犬がらしからず甘えてくるような仕草につい絆されて、黒子が青峰の我儘を聞いてしまうのが常だった。
提出の締切が迫った課題のノートだって、練習の後のちょっとした戯れだって、皆で連れだって遊びに行くときだって、―――…ベッドの上だって、例外はない。

「で、もっぺん訊くけどな、テツ」
「…ッ、なん、です…?」

不埒な手をまた黒子の肌に這わせながら、青峰が笑う。

「続きしてェんだけど、…シャワー、止めていいのか?」

狙い澄ましたように左の耳、すぐ近く。
吹き込まれたいつもより低い声と、甘噛まれる耳朶。
黒子が自分の何に弱いのか、青峰はちゃんと知っている。
勝負所で最も有効な手段を間違えないのが、この青峰大輝という男なのだ。

ぱっと朱を散らしたように鮮やかに染まった耳と首筋。
すぐにでもむしゃぶりつきたいのを堪えて、テツ、と青峰は小さく名前を呼んだ。
途端に震えた肩ににまりと笑む。すぐに答えが返ってこないのは、彼が意地っ張りな証拠だ。

けれど、そんな我慢比べもあとわずか。
黒子の弱点を知り尽くした青峰が、望む答えを引き出せないはずがないのだから。


「……意地、張ってんなよ」


―――好きだ。

耳朶に唇を触れたまま、あのときと同じ声で囁きながら、
さて黒子が落ちるまで、青峰はカウントダウンを始めるのだった。




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